リレーエッセイ――囲碁のある風景   



  第23回  私の高齢ライフ           川井 正紀      

 14,5年前勤めを終えるのも近くなり、高齢期をどのように過ごすか考えました。身体的にも精神的にも健康で、長く楽しく日常生活を送るにはとして私が考えついたのは、一つは、若い時住んでいた団地のクラブで1年ほど手解きを受けた囲碁に再挑戦すること、認知症の予防に役立つことを期待して。二つ目は、体力の維持のために運動をすること。三つ目は、我が家の付近にはまだ農地が点在するため家庭菜園で野菜作りをし、無農薬で新鮮な野菜を食すること。最後に時間があると都内の美術館にしばしば立ち寄り有名画家の絵を鑑賞していましたが、自分で絵を描いてみることに挑戦こと等でした。
 囲碁は、近くの公民館で日本棋院の普及指導員(元院生とか)が教えているクラブがあるとのことを聞き参加することにしました。(月4回 各3時間)ここで初歩からの勉強囲碁の歴史、礼儀作法、基本のルール、布石、中盤の戦い(手筋、生死)寄せの終盤等の講義を聞き、自由対局で腕を磨きましたが、あまり実力は上がりません。そんな時故長友さんにお会いし本会に入会させてもらいました。
 宇宙へ飛び出したように碁の世界が広がりました、実力ぞろいの皆様にお会いする機会が出来有難く思っています。囲碁は本当に奥の深いゲーム格言も百近くあるとか、二子にして捨てよ、死はハネにあり、攻め合いのコウは最後に取れ、敵の急所はわが急所、等など週2~3回の実戦中はころりと忘れ痛い目に会っており上達は望めませんが楽しんでいます。教育上も効果があると考え孫娘(小2,3頃)に機会をみて教えましたが、塾通や他の習い事が優先か、なんだか難しそうと止めてしまい、孫との対局は夢幻に終っています。
 体力維持の運動は、硬式テニスで二つのグル―プ(約30名女性3分の1)に参加し週2回各3時間プレイしています。寒風の1~2月から酷暑でコートの温度が50度位になる真夏までも1年中皆で球を追い走り廻っています。筋肉は締まり、何んとかは風邪も引かないと言いますが、殆んど風邪は引かなくなりました、プレイ当日は一杯もすすみ疲れかから熟睡です。84~85歳まで続けたいです。
 野菜作りは、栽培の書物や人に教わりながらの試行錯誤、最近は土つくりも上手になり、人力で夏の雑草取りは大変ですが、年間30数種類の無農薬、有機野菜を収穫できます。近頃は野菜も高くなったとか、近所、知人にお裾わけすると大変喜んでくれます。
 絵画は、カルチャーに通いまず日本画に挑戦しましたが、工程が多く、膠の使用、色の材料など手に負えなくなりギブアツプ、比較的取りつき易い水彩画の先生の指導を受けました。今は静物画や風景画を中心に気の向いた時に描いています。
 昨夏のモンゴル親善囲碁交流時の草原を思い出し描いた作品を掲載します。
 以上の私の日常生活の一端を紹介しました。最近友人、知人などで身体の不調や病院通いの方が多くなってきました。何時までも今日行く所があること(教育)が大切とか、一週間その他も含めは予定は一杯です。気力、体力もあり健康で充実した日を送れているのは高齢化を前に始めた手習いのお陰かもと思っています。



  第22回  ヨットでの体験談(ホーン岬へ)  浜田 鴻之介      

 私は囲碁については全くの初心者ですので、この欄で書けることとしてはヨットの話くらいしか有りません。 そう云うことで勝手ながらヨットについての無駄話でも書かせていただきます。

 私がヨットを始めたきっかけは、2005年、65歳で、うだつの上がらないサラリーマンとして、長い会社勤めを終えることになり、これから何をするのかを、考えたことに始まります。
その頃、藤沢周平のベストセラー「三屋清左衛門残日録」を読み、その冒頭に書かれていたことを思い出します。
「残日録」とは「残った日を数えよう」というのではなく「日残りて黄昏には未だ遠し」と云う意味である」との言葉に惹かれました。小説自体は現役を引退した主人公が、自由気ままに余生を過ごそうとしたものの、今まで勤めた組織と離れられずに、旧組織の事件に関与していくという、言わば、現代のサラリーマンの願望を描いたもののようでした。
 私の場合は、今までに出来なかったこと、未知の世界を体験したいという一心で、ヨットを始めた次第です。子供の頃から、ヨットに乗って、南米最南端のホーン岬に行ってみたいという願望がありましたが、このことを口にするたびに、「馬鹿なことを考えるな!」と教員に叱られましたので、以後そのことを口にすることはやめました。退職を期に、長年の夢を叶えるべく、ヨットを始めたという次第でした。
 しかし、セーリングの経験としては、学生時代にA級ディンギーと云う初心者用の小型ヨットに乗った事と、45歳頃に始めたウインドサーフィン位のものでした。この程度の経験、技術では、遠洋航海に出られるようなクルザーの操船は到底出来ません。ともかく全くと云っていいくらいの素人でしたので、毎日が勉強の日々でした。多くの方々に教えられ、また、助けられてここまで来たことを感謝しています。
 2006年の秋に大阪で中古の32フィート、クルーザーヨットを購入して、2007年の春まで新西宮ヨットハーバーで、整備をして、その後、4ヶ月ほどいろんな人に教わりながら練習をしました。それから単独で瀬戸内海を横断し、九州と四国の間の豊後水道を抜けて太平洋に出て四国南岸、潮ノ岬、石廊崎を回って、東京湾マリーナまで廻航してきたのがヨット歴の始まりでした。 その年の秋に、テストランの意味で小笠原往復をいたしました。小笠原に行くにはヨットの装備に関し遠洋航海の資格を取ることが必須条件になっており、この事が意外に難しくその為小笠原にヨットで行った人は極めて少ないことを知りました。
 その後、さらに船の整備を重ねて、翌年の2008年には太平洋を単独で横断、往復をすることが出来ました。 この事は、改めて別の機会に書かせて頂くことにしましょう。

 そして、次の年の2009年7月に東京湾マリーナを出航してホノルル、タヒチ経由でホーン岬に向かいました。南緯35度以南は西風ゾーンになっておりその後ホーン岬に向かって南下するに従い風波が強くなります。 船乗りの間で恐れられている暴風圏の中に有るのが南米最南端の岬である、ホーン岬です。 世界の船乗りの間では古来、南緯40度付近を「吠える40度線」、「Roaring40」、南緯50度線付近を「怒り狂う50度線」「Furious 50」、南緯60度付近を「叫ぶ60度線」 「Screaming 60」と呼ばれています。ホーン岬の位置は南緯56度ですので、暴風帯の真ん中に位置しています。私がホーン岬に向かった時期は現地の夏季にあたります。つまり冬季に比べれば風波ともに穏やかだったようです。それでも私が観測した範囲では最大風速64ノット(32m/秒)で波高は10mあまりでした。
 外洋では高波が来ても大概の場合うまく乗り切れるものですが、それでも2回ほど横波を受けてもろに海面にたたきつけられました。この時の衝撃はすさまじく船内で縛り付けて固定しているはずの積荷が散乱してしまいました。ホーン岬の近くは高波が起きやすく危険な水域ですが、私が回航した時2月2日は幸いにも天候が穏やかになり、岬のすぐそばを通過することが出来ました。通過に当たっては無事回航出来たことへの感謝をこめて、東京湾マリーナの川村会長から頂いたバーボンをコップにとり岬に向かってさっとふりまきました。その後岬のすぐ北側にビーグル海峡と云う東西に延びた狭い水路に入りプエルトウイリアムスと云うチリの港に入りました。プエルトウイリアムスは人間の住む集落としては、世界で最南の街であるとの事です。寄港したのはミカルビヨットクラブで、これは廃船になったチリの軍用船をヨットクラブに改装したものでした。このヨットクラブには世界各国のヨットが寄港しており、大勢のヨットマン達でにぎわっていました。殆どのヨットはホーン岬やパタゴニアの各地をクルーズするのが目的のようで、実際に太平洋からホーン岬を回航して来たヨットは私のヨット”Maverick2”だけでした。ケープホーンを帆船で回航したセーラーは「ケープホナー」と呼ばれ、敬意を払われるとの事でした。そのおかげか、どのヨットマンも大変好意的で歓待してくれました。
 余談ですが、「ケープホナー」は他人と会う時でも机の上に足を乗せたままで許されるとの言い伝えがあるようです。ミカルビヨットクラブにはバーが有り毎晩大賑わいで、数日間楽しい日を過ごすことが出来ました。もう一つ余談ですが、ミカルビヨットクラブも世界最南のヨットクラブでありますが、バーは世界最南ではないとのことでした。世界最南のバーは、南極大陸にある某国の観測基地内で観光客向けに営業をしているバーがあり、それが世界最南のバーであるとの事でした。機会があれば是非とも訪問したいものです。
 そうは言ってもここは南緯56度の極地です。2月上旬で当地は夏のはずですが、日1日と冬が近づいて来るのが感じられます。 朝、目を覚まし周りを眺めると、昨日まで青かった山々の一部が白くなっています。こういうことが続くと焦ってきます。長い航海で傷んだ船の修理の為、ビーグル海峡の北側にあるアルゼンチンのウシュアイアと云う比較的大きな港に行き、パーツの購入や船体、セールの補修をして、ともかく、次の寄港地であるフォークランド島のポートスタンリーに向けて出港しました。
 失敗も沢山ありましたが、その一つ。タヒチを出港してすぐに暖房機(温風ファンヒーター)の稼働をチェックしましたが、そのあと、排気口を塞ぐのを忘れて、そこから海水が浸入して、暖房機がダメになってしまいました。 これは修理のしようがなく、プエルトウイリアムスからフォークランドを出港するまで寒さにふるえる毎日となりました。ホッカイロは持っていましたが、すぐに使い果たしてしまいました。 この時、知ったことはホッカイロというものは日本だけにしかなく、諸外国では売っていないということです。
 悲しい知らせもありました。3月中旬でした。知り合った米国のヨットマンからメールが入り日本の「キフウ」と云うヨットがホーン岬西方の海上で消息を絶ったとの事でした。私もケープタウンで日本のネットを検索しましたらやはり事実のようで、手を尽くして捜索中のようでした。南緯50度付近の海域で冬季でもあり厳しい天候でした。結局行方不明のままでした。
 参考までに、南半球の海は北半球に比べて風が強いとの事です。この理由は南半球では陸地の面積比率が約20%であり北半球の40%に比べて小さく、その分、風通しが良くなり、強風が吹きやすいとの事です。ホーン岬の周辺は強烈な西風ゾーンでありますので、私の技術では引き返す事は出来ません。従って、日本に帰るには、ひたすら東に向けて帆走するしかありません。つまり自動的に東回りで世界一周をすることになった次第です。途中立ち寄りました港では多くのセーラーたちに助けられました。海の男達(女達も)の友情には感謝しております。彼らのおかげで、無事に帰って来られたのだと思っています。
 大西洋やインド洋、オセアニア、南太平洋の各寄港地での出来事については、またの機会に報告いたしましょう。
 今回はこれにて失礼いたします。

  第21回  ミャンマーで囲碁入門講座   長谷川 加奈美      

 村岡(当時は橋口)美香先生のファンが提案して始まった「日タイ友好囲碁大会」も今年で11回目となった。寒い時期に日本を脱出して、常夏のタイを訪れ、親友のワンタニーさんに会い、バンコックで友好囲碁大会、チェンマイで親睦碁会は楽しい年中行事だった。毎年、訪タイの度に、あちこち足を伸ばし、金ピカのお寺も、翡翠の仏像も、絵を描く象さんも、水上マーケットも、植物園も、美味しいエビやさんも、毎夜のマッサージも堪能し、美香先生と村岡先生のタイの結婚衣装でお祝いをした日のことも懐かしく思い出される! あの時は、花嫁美香さんの豊満なバストの納まる衣装を探し出すのが大変だった!
 そしてここ数年はその前後に他国を回って楽しんでいる。今年はミャンマー囲碁親善大使の榊原史子六段もご同行とあって、ミャンマーを訪問することになった。村岡茂行九段、水野弘美五段と共に4名の棋士。まだ囲碁未開発国のミャンマーで囲碁入門講座を企画。言葉の通じない国でどんなことになるかと興味津々。入国にはビザが必要でちょっと面倒だなと思ったけれど、ネットで大使館に申請したらば、何と翌日に届いた!
 榊原先生のご縁で「ミャンマー皆好会」前理事長権藤さん(王子動物園の元園長)にヤンゴン市内の「ティンミャンマー ランゲージスクール」を紹介していただき、その生徒達に囲碁入門講座を持つことになった。
 クアラルンプール経由でミャンマー到着の旅行初日1月17日にランゲージスクールに着くと、生徒たちは行儀よく机に着席して待ってくれていた。
 4名の棋士による講師陣の充実した指導に加えて、当センターのティンエイエイコ学長(神戸大学卒)による流暢でユーモアのある通訳で終始盛り上がり、学生たちは夢中で囲碁に取り組んでいた。「ワクワクする!」「すごく楽しい!」と言いながら、習得するのも早く、アタリやシチョウの説明のあとは即連碁や対戦で賑やかに和やかに学んでいた。
 在ミャンマー日本大使館から東英明氏も見学に見えていたが、なかなかの熱心さで生徒たちと一緒に講義を受けてくださり、「ミャンマーでは、暗記教育が重視されてきたことがあり、先のことを考えながら、最も効果のある次の手を実際に打っていくというのは難しいのではないかと、見学する前はなんとなく思っていました。ところが、実際皆さん楽しそうに熱中して、考えている様子には感銘を受けました。 国際交流基金とミャンマー元日本留学生協会が運営する“ふれあいの場”でも毎週囲碁クラブが開催されています。今回の行事や当地でのこうした取り組みを通じて、囲碁を楽しむ方が増えてくれればと思います。以前から囲碁に 興味はあったので、これを機会に絶対に囲碁始めます!」と約束してくださった。
 後日学長からのご報告によると、その後全員が囲碁への情熱去らず、知らない人には教えもして、対局を楽しんで続けているそうな。学長自身も、自宅で息子さんと楽しんでいるそうで、「囲碁の楽しさは年齢を問わずにできること、脳の刺激にもなり、落とし穴を見つける注意力が問われる素晴らしいものです。」と絶賛してくださる。この調子だと、数年後にはきっと世界アマ選手権戦にも参加できる打ち手が出てくることだろう。たった数時間の講座ながらその効果は素晴らしいものだった。
 さてミャンマーといえば、
 〇昔のビルマであるということ
 〇開発の可能性大とて、多くの商社などがなだれ込んだが、インフラが不充分で何事もまだ不可能(とはいえ、この2年前に30社だった日系企業がいまや330社とか!)
 〇2年前に息子さんとミャンマーのお嬢さんとの結婚式でヤンゴンへ行った友人によれば、「脂っぽい料理ばかりで、食べる気がしなかった。」
 〇タイで働くメイドさん達は、皆貧しいミャンマーから働きに来ている。・・・
というような情報しかなかった。しかし、だからこそ、どんなかなーーと、この目で確かめたかった。初めて来訪する国というのは楽しみなものだ。
 まず、予想外に参ったのは交通渋滞。電車などなく、交通手段は車のみ、しかも高速道路も、高架の道路もない。緑の並木が続いていても、道路はひたすら車で埋まり、身動きできず、いつ目的地に着くのか予測できない。だがしかし、長い忍耐の末にやっと到着したホテルは、たいそう立派で、従業員皆大変愛想よく、気持ちの良い笑顔で対応してくれる。部屋の設備も問題ない、Wifiも完備している。立派なレストランのお料理も悪くないし、街中には広い公園もあり、美しい女性もよく見かけるし、黄金色の立派な寺院もたくさん存在している。地元の人に案内してもらっていった下町の食堂では、数十種類の料理がバットに入れて並んでいて、好みの料理を指差すと小鉢に入れて温めてくれる。魚介類が多かったけど、いずれも新鮮で、いやはやどれも美味だった。毎日食べても飽きないだろう。交通渋滞を除いては、なんの問題もなく快適に過ごせた。
 驚いたのは、年齢を問わず、子供から老女まで、ほっぺに丸く白粉を塗っていることで、これは「タナカ」とよばれる天然の化粧品であり、日焼け止めの効果もあるらしい。「タナカの木」を小さく切って少量の水とともにすりつぶし、ペースト状にして用いられる。なんとも異様というか滑稽というか、ビジネススーツ姿の女性でさえみな塗っている、ふしぎだー。 もう一つ驚いたのは、寺院や空港での土産物店で見かけた木製の器、どう見ても碁笥としか思えないけど、当地では茶葉の入れ物だという。びっくりしたなーもう。
 せっかく初めてのミャンマーだから、観光もしたいと思っていたが、二泊では遠くへはいけない。楽しみにしていたバガン遺跡(ミャンマーのほぼ中央に位置し、広大な草原の中に大小約3,000を超えるパゴダ(寺院)があるという所)へは移動に一日かかるそうだし、ガイドブックで見た気になるお寺も2日がかりだということで、今回は断念する。タクシーを半日契約して、ホテル近場の寺院や市場を回ったが、黄金のシュエダゴンパゴダの大きさ、美しさには圧倒され、でっかくて厚化粧の涅槃像のあるチュッダジーパゴダには相当感激した。仏教国であるゆえ、お寺の数は半端でなく、あちこちで僧衣を着たかわいい子供の僧の姿に出会った。
 そんな訳で、ミャンマーの印象は悪くなかった。ランゲージスクールの生徒達のその後の囲碁の進展も気になるし、行けなかった観光地も心残り。はや、次のミャンマー行きを心待ちにしている。

 タイでは国王の喪中とあって、我々も滞在中はモノトーンの服装で過ごした。
バンコックでは、現地のお嫁さんを貰って暮らしている学生時代のギター部の先輩と50年ぶりの再会。運転手付きの高級車で送迎してくれて、すばらしい海鮮料理をご馳走になった。店先に並んだ生きている海老や蟹の料理の美味しかったこと! 食後の市場での買い物では、なんでも半額に値切ってくれるし、マッサージ屋さんではゆっくりくつろいだ。やはりタイ語を喋る人と一緒だと数倍楽しい。
 次の日は一日フリーだったので、かなり高速のカヌーのような小さなボートで、運河を巡った。水上から見る庶民の暮らしは大変興味深く、面白かった!!
あとはホテルでのんびり。せっかくのシェラトン・高級ホテルゆえ、その施設を充分に活用。綺麗なプールサイドの木陰で泳いだり、碁をしたりも楽しかった。川べりで行き交う船のきらびやかな電飾を眺めながらのディナーも最高で、想い出深いものになった!

 バンコックでは大会会場で親友ワンタニ―さんとハグハグし、子供達と対局し親睦交流した。その子供は、この3月に東京へ囲碁の勉強に来たいというので、日本棋院でのクラスをアレンジしてあげた。
 チェンマイでは、いつものKENさんの碁会所でトリプル碁。美香ちゃんチームで勉強させてもらった。お向かいのマンゴーライスも懐かしかった!!
 今回の旅は、関西からは10名参加、それが各々出発日、帰国日が違ったり、直前に参加者が増えたり、ホテルが数カ所に分かれたり、フライトもホテルもお任せして、茂ちゃんトラベルには、大変御迷惑をかけてしまった。美香先生のご両親その他高齢者がほとんどだが、おかげさまでみな暖かい所で楽しく過ごすことができた。
 やっぱ、寒がりのオイラには冬はタイがいいなぁぁ

  第20回  我が囲碁人生の中から     進 哲美      

 1 囲碁との出会い
 我が生家は北九州市の小倉から南へ汽車で1時間位の田舎町の駅の近くにあった。そのため駅に遠い家から北九州の八幡製鉄(現新日鉄)や東洋陶器(現TOTO)等の会社に通勤する者の自転車置き場となっていた。
 夕方ここまで帰って来た者たちは、ほっとして我が家の縁側でお茶を飲んだり、将棋を指したりしていた。中には座敷に上がり碁を打つ者もいた。
 私は、小学校の時は外でパッチン(メンコ)、ラムネ(ピー玉)、釘(?)など勝負事を夕方までやることが多かった。それらの遊びで獲得したパッチン、ラムネ、釘が増えていくのを楽しみにしていた。一方、大人たちの将棋や碁も眺めていたのだと思う。
誰に教わる事もなく、先ず将棋を覚え、その後に碁を覚えた。大人たちの相手をするようになった。ただ、将棋とはこの段階で別れを告げ、囲碁とはこれ以降長い付き合いが始まることになる。
 中学に上がる頃には親父を含め大人たちに負けなくなっていた。親父の無尽の会に連れていかれ、町でも強いと言う評判の若者と対戦させられたこともあった。中学の時、囲碁好きだった先生の当直の夜、呼ばれて相手をさせられたりもしていた。

2 フランスで囲碁
 1972年フランス政府技術協力給費留学生の試験に合格し、11月フランスへ渡った。この制度は、フランスの技術を学んでもらい、その技術を輸出に結びつけたいとの意図で作られたもので、行く先は大学ではなく、役所や企業であった。だから低開発国からの留学生(研修生)が多く、当時既に新幹線を開通させていた日本の採用人数はだんだん減らされていた。ただ昭和47年にはまだ10数人が採用され、囲碁国際交流の会の初代会長を務められた長友秀実さんもその一人だった。
 私は、パリで語学研修を受けた後、最初の2ケ月、ルーアン郊外の国交省の地方機関CETEで研修を受けることになった。ここには、国交省の研修所が併設されていて、そこにエクアドル人と一緒に寝泊まりする事になった。ウイークデーは研修所があり、三度の食事にありつけたが、ウイークエンドは困った。この広いルーアン郊外の施設に掃除をする者しか見当たらなくなってしまう。そこで二人ともお互い自由行動することにし、私はパリまで足を延ばし、カルチェラタンの安宿に泊まり、目的もなくあちらこちらをさ迷い歩いた。今は場所も思い出せないが、カフェで碁の打てる場所を見つけ、そこで碁を打つことができた。どのような碁を打ったか覚えていないが、そのカフェの主が、パリで一番強いポリテクニシャン(名門の理工科学校の学生又は卒業した者)が時々来る。その人なら私に勝てると言った意味に解した。
 このウイークエンドの過ごし方は、数回で終わる。CETEの女性の職員から声をかけられ、ご主人が囲碁好きでウイークエンドに家で碁を教えてもらえないかとの申し出であった。二つ返事で承諾し、金曜日引けてから彼女の車でルーアンから30キロも離れたお宅へ伺った。ご主人は中学の英語の先生で、囲碁は初心者で数局打っただけだった。その後ほとんどウィークエンドにはノルマンディーの各地を案内して下さった。時にはブルターニュまで足を延ばすこともあった。この二人の企画によりルーアン市内で囲碁の会も開催され、10数人が集まり、私は初めて三面打ちの経験をした。
お二人には子供さんがいなかった。しかし子供さんがいなくても、土曜、日曜にはいろいろ用事もあるはずなのに、これほど親切にしていただきお礼の言いようがなかった。そしてまた、囲碁を覚えていて良かったと思った。

3 世界アマ囲碁選手権戦
 囲碁国際交流の会に入会して、2007年の世界アマ囲碁選手権東京大会には歓迎会にしか出席できなかったが、翌2008年の東京大会では観戦もできた。キューバで対戦したアントニオ・カバジェーロさん、メキシコのキンテロさん、大会の始まる前来日して東京湾アクアラインの海ホタルや横浜中華街を案内したグァテマラのパイスさん、チリで対戦したシュローテルさん、アルゼンチンの強豪アギラールさん、今回の中南米の選手には知り合いが多い
 フランスはどんな選手かと思って見たら、マルセイユで囲碁インストラクターをやっている視覚障害者の五段、ピエール・オードュアルさん。その日の対戦が終わった後、工藤紀夫審判長ガオードュアルさんと打ち碁を並べてコメントしているのを見させてもらったが、かなり強い。
 その日の夜、中南米の選手を招いての歓迎会には佐藤先生がスペインのドン三上優さんを誘い、賑やかな懇親会となった。
懇親会の後、その三上優さんに連れられてロペスさん、チリのシュローテルさんそれにスペインの選手と一緒にどこか分からずついて行った。着いた所は麹町のダイアモンド囲碁サロンだった。何とそこには世界アマの各国の選手が大勢対戦していた。私はちょうど手隙になっているある選手との対戦を勧められた。チェコ代表で六段と言うので、2子置いてやることにした。結果は、こちらは酩酊しているとはいえ、完敗だった。
後でチェコの選手はヤン・ホラという学生で、14位に入り、オードュアルさんが17位だったことを知った。フランスでちょっとだけ囲碁を体験した時から35年の月日が経っている。
ヨーロッパは、我々の囲碁国際交流の会の交流の相手国ではないことを改めて思い知らされた。

  第19回  私の友達        室岡 雅子      

 2008年2月、大田区池上文化センターで囲碁を楽しんでいるグループ“楽碁会”に入りました。30人足らずの小さな会ですが、一から教えていただき毎週水曜日に通っています。若い頃、石に少しさわった事がありましたが、40年以上縁がありませんでした。2006年キューバの旅に参加し、同行の皆様が空港でも、機内でも楽しそうに打っていらっしゃる姿を見て、いつか勉強して、お相手をしていただこうと往きの飛行機で決心しました。2008年のキューバの旅では、私は30級と前置きして、相手をしていただきました。ホテルで、森野先生にも、一局打っていただき感動しまし た。
 友達というのは、ソフト“百万人!のための囲碁(爆発的1480シリーズ)”です。度々する待ったに文句を云わず、ヒントをもらっても怒らず、ありがたく7年おつきあいしています。1目でも勝って左にいる着物姿の男性に頭を下げさせたい一心で盤に向います。目標はレベル⑩に勝つ事、一生かかると思います。今後共どうぞよろしく。

  第18回  アマ碁の楽しみ      久保 昭二      

 碁に出会って60年、四国から大阪に出て住んだ学生寮の談話室、聞こえはいいが遊びに出る小遣いの乏しい者が集まって粗末な盤石を囲んで時間をつぶし ていた場所で、親切に手ほどきしてくれる者もなく、打っているのを眺めているうちにいつの間にか覚えたと記憶している。そこには大学囲碁部の猛者も何人か いたらしいことは後に知ったが、今思えばどうやら碁を覚える環境には恵まれていたらしい。
 30才位で棋力は頭打ち、仕事現役時代はいろんなことに興味が移り、忙しさにもかまけて碁の方はあまり熱心ではなかった。40才で転職が余儀ない事態 になった時、碁のご縁もあって第二の職場に恵まれて定年まで過ごせた事はまさに碁が私の人生をささえてくれたと、出会いに感謝している。歳をとってもそれ なりに楽しめるし、国際交流の会も含めて多くの人たちとのつながりが出来た事もうれしい。
 ところで、プロとアマとはどこが違うのだろうか。勿論、プロに伍して戦えるアマ実力者は居るけれどやはりそこにはなにかの違いがあるような気がする。 トッププロの先生方は小・中学生名人戦などの舞台で名伯楽に素質を見出されプロへの道を歩まれたという方が多いと聞く。「この子は強くなる」と言うのは何 でわかるのだろうか、見る人が見ればわかるらしいが、違いは何なのだろうか。私達アマには見えない構想の組み立てとか戦略的な感性の部分に違いがあるのか も知れない。脳科学がいずれ明らかにするだろうが、パターン認識とかに囲碁に適した独特の分野が生まれつき備わっているのだろう。勿論すべてのプロの先生 方は天性の素質のもとに年少の頃から血のにじむ努力 と研鑽を積まれた上で築かれたステータスであって私達多くのサラリーマンとは比べものにならないきびしい世界である事は想像できる。
 近年、日韓中の国際棋戦ではかつての王国日本の旗色が悪い。一つには韓中両国の囲碁熱がここ20年あまり格段に高まり国を挙げての熱気が成果を挙げているのだろう。つまり囲碁人口の底辺が大きく広がり埋もれた有望な原石が見つかる率が高まっている結果ではないだろうか。
 インターネットの普及で情報は瞬時に飛び交い国際棋戦の舞台ではこれまでの常識にないような着想もないと太刀打ちが難しいらしい。「子供の頃、こんな 手は発想になかった」、とベテランの棋戦解説の先生が言われるような形が巧手になるようにプロの世界もますます大変な時代に入っているようだ。
 不遜と失礼を許して頂ければ、私自身はプロの先生から直接の指導碁を受ける事にあまり熱心でない。これは、自分に指導を受けた事を理解し吸収する力が ないし、もともと発想の土台が違うのだという諦めが先に立ってしまうのが大きな理由である。もっぱら新聞とかテレビなどで別世界の勝負の観戦を楽しませて もらっている。ネット碁のお誘いも頂くがどうもなじめない。これまた碁は相手の顔色をうかがい、ぼやきのやり取りをしながら戦うのも形勢判断?に役立ちそ うに思う私の勝手読みからである。
 ともあれ、気楽に碁が打てることはアマの特権。切れるところは切り、無鉄砲に相手の石を取りに行く、これぞ楽しからずや! 


  第17回        水 勾 配          越野 武      

 古いアルバムを整理していたら、高校生姿で碁を打っている写真がでてきた。してみると碁とのつきあいは60年、暦がひとまわりということになるらしい。つきあいが長いだけで力量はさっぱりという向きは、ご同輩にも大勢おられるかと思う。
 それでもまわりからおだてられて、免状だけは4段位を頂戴した。ずいぶん昔、60年のちょうど中間点あたりである。免状は本棚の奥で埃をかぶっている。立派すぎて目にすると恥ずかしさが先だってしまう。 段位にしても、碁をおぼえはじめた頃を思い返してみると、はるかに厳しかったし、今でもちょっと骨のある詰め碁などで「有段クラス」とあるのは、たいがい歯がたたない。そんな程度である。陸(ろく)屋根というのがある。水平に見えるが水が淀まない程度のごくごくゆるい勾配がついていて、建築屋は「水勾配」という。これに近い超緩勾配の棋力上昇である。
 超緩勾配であっても、それぞれの棋力レベルに応じて思いおこすことがないでもない。初段と言われるようになったのは、大学を卒業して10年ほどたったころと思うが、中山典之さん(追贈7段)の『石の形』といったタイトルの本を読んだ記憶がある。ともあれ、石の形に良いのと悪いのがある、と知ったわけだ。2段、3段のあたりで、自分の打碁をあとで並べなおすことができるようになったり、あまり「待った」や口出しをしなくなったかもしれない。盤側から見ていてこれは悪手だと思うから口出ししたくなるのだが、〈手〉の可能性はとても広いから、一見すると悪手に見えても、考えによっては別の評価もありうる。そんなことを考えるのが楽しみになり、口出しする気がなくなった。
 これはついでの話だが、たまには「待った・口出しご免」の碁を打ってみてはどうだろう。行儀は悪いし、〈公式戦〉ではもちろん御法度だが、やってみるとなかなか面白いのである。別の言い方でなら、こういうのを「研究碁」と言うのかもしれないが、まあ賑やかで楽しいこと請け合いである。少なくとも欲求不満の解消にはなる。ただ、碁会所でこれを野放途にやるとはた迷惑になりかねない。
 話が脱線した。4段位のころで憶えているのは、ハネツギのことである。中央に向かう石でハネた跡をどう始末するか、考えどころである。それまで一生懸命だったのは、「効率の良い」始末の仕方で、いろんなカケツギや、ツがずにすますことを考えていたように思う。あるとき固ツギもあることに気がついた。それまでは愚鈍に思っていたのだが、案外そうでもないかと思うようになったのである。そこまではよいとして、あとの30数年が心もとない。近ごろはいろんな場面で〈手を戻す〉ことも、たまには心がけるようにしているのだが、なんのことはない、ハネ固ツギをちょっと敷衍しただけのことだ。それも心がけるだけで、実際は目の見えない猪みたいなものである。
 まあ、そんなことより碁をとことん楽しむのが、素人の特権である。これだけはプロも及ばない?のだそうだ。正直に白状すると、元来が行儀のよい碁よりも賑やかな方が好きなタチである。理想の碁は、うまい酒盃を傾けながら、気心の知れた同士で「囲む」ようなのである。札幌で月2回(第1・3木曜日、日本棋院北海道本部・囲碁会館)の定例碁会を続けているのがそれに近いように思っている。一応「国際交流の会」の北海道支部みたいなことになっているが、全員が会員でもないし、碁会そのものははるかに昔から続いてきたのである。
 会には名前もなくて「味村会」が通称みたいになっている。味な村人のあつまり、みたいで語感も気に入っているが、そういう意味ではなく、常連中の味村隆史さんが元祖だからである。いつ頃からか定かでないのだが、S君 ― 早いもので今年が亡くなって10年目になる ― としばしば打っていたのだという。棋力伯仲、口も含めて丁々発止の典型的なカタキ同士だった。1人2人と仲間が増えて、たしか私は5人目くらいだと思う。今は10人ほどになった。別に決まりがあるわけではないが、会の眼目は「アフター・ゴ」の居酒屋の方にある………少なくとも私はそう思っているし、草創の頃は間違いなくそうだった。
 お叱りを受けかねない話である。「水は低きに流れる」というから、棋力の水勾配も怪しくて、ひょっとすると逆流してるかもしれない。せめて水が淀む程度であってほしいもの、と願っている。

    
 今年1月の札幌定例碁会。日本棋院北海道本部。いつ も囲碁会館の一番隅のところが定席みたいになっている。
左側奥から2人目が最古参の味村隆史さん。
2013年6月定山渓温泉で開かれた北海道交流会の
宴席風景。札幌の碁会が主力になって準備した。
こんなご馳走が 並ぶのが私の理想。


  第16回   囲碁クラブ寸景      鶴丸一彦      


 赤穂四十七士で知られる萬松山泉岳寺から徒歩一分、築40有余年の所謂マンションの一室が当囲碁クラブ。定年退職後通っていた碁会所が畳まれる事になり、仲間の口車に載せられて、品川駅隣のビルを借りて囲碁クラブを始めたのが2001年夏であった。 時には幾人かのプロ棋士も顔を出され、そこそこの賑わいをを見せたものの、賃貸料、維持管理費の高騰についてゆけず、2010年現在地に引き籠った。
 幸い、年に2~3度の旅行以外、休まずに続けられているのは、少なくとも私の健康保持には役立っていそうである。
 現役時代から来られている方々も、今は退役。数人を除けば、来所者は最高齢の95才を筆頭に所謂大ベテラン達である。ここでは、当クラブの日常寸景を紹介する。
・第1土曜日
大学同学科卒の同窓生。嘗て大学囲碁部で覇を競った勇士も含めて十数名のメンバー。昨年末に百回記念を祝った。会社社長・役員経験者も多く、盤上もさり乍ら、舌戦も中々のもの。毎回、囲碁の以後戦は、近くの中華料理店で盛り上がる。稀に、孫同然の現役学生が敬老に参加してくれるのは嬉しい限りである。
・第3土曜日
然る商社マンOBの集い。午前9時半前から午後5時過ぎまで、昼食を挟んでの戦い。
メンバーは6~7人、総当たり制、可成りの熱戦ぶりである。幹事役は先日卒寿を迎えたそうだが、70代前半の風貌である。
・第4土曜日
大企業OBの囲碁同好会の月例会。碁キチ揃いで、会の前には個別に前哨戦も戦われる。
・月1の月曜日
高校の同期生6~7人のグループ。女性一人が輝く存在で、向上心旺盛、他の仲間とも定期的に対戦している様である。
・これも月1の集まり
大学同学科卒の同期生。毎回新幹線で参加する方もおられ、多士再々の集まりでる。盤面以外での舌戦が盛んで、同期ならではの議論も時に大いに興味を誘う。
・毎週火曜日
当クラブオリジナルメンバー。口も切れ、頭も切れる大長老は95才。2020年のオリンピックには100才で“なでしこジャパン”を観戦する夢をもっていらっしゃる。
大学時代の画会の代表幹事であるが、画風、絵筆のタッチ、若者顔負けで力強く明るい。
碁での特技は大風呂敷を広げる事で、風呂敷に入ってきた石を取れたら勝つという碁で実に若々しい。だから、認知症とも無縁なのであろう。毎回タクシーでの往復を楽しんでおられる。他は、絵描き2名、骨董趣味1名、馬キチ1名、他は生真面目な碁キチ。コーヒー好きが多く、自由闊達なコーヒーブレークも楽しげである。
・毎週水曜日
現役時代からの会社の同僚同士。夕食を持参して1時頃から8時過ぎまで対局。 実力は同じ位なのに、一番手直りで、3子、4子も置かされカッカする事の多いペアーであるが、実に楽しそうである。
・毎週木曜日
この日も好敵手同士。三番手直りで、二回は勝つものの、カド番になると負けるため、何時まで経っても石の色が変わらずに嘆くこともある。
・金曜日
同業者間の特殊技能者での碁仲間。少数精鋭部隊であるが、メンツが揃い難い。高齢化が進み、天候不良は中止、配偶者の不調でも中止となる。この傾向は当所、どのグルーもその傾向を辿りそうである。
・女子プロ来訪
月に一度、サポーターを伴い来訪する。 以前にNHKテレビで囲碁対局の聞き手をしていた美人プロ。最新の自局戦及びタイトル戦を解説した後、対局して感想戦を行う。流石に良い刺激になる。
・ふらりと現れる指導者
最新のタイトル戦の棋譜を持って夕方ふらりと現れ、一局打って帰られる。近隣のお寺で、学齢前のチビッ子に英才囲碁教育を行い、プロ棋士の玉子を育てている。“一力は最近プロの顔になってきた”と嬉しそうである。
 ここでのチビッ子は夏休みなど、他流試合の経験に母親とひょっこり現れる事がある。床に足も届かないチビッ子が大人を負かして帰る。母親はどの小学校に入れるかと思案中との事であった。

 当クラブは70才台後半の方が多く、指先の神経が衰えてきているせいか、石を落とす事が多い。盤面を並べ直し再開するのであるが、打っていた盤面と一路間違って直したために、負け碁だった方が勝つ事もある。閉店後に、落ちた石を拾うのであるが、何故か黒石の方が多く落ちている。経験則であるが面白い。
 そういえば、品川で始めた頃、親に連れられて小学校低学年生と幼稚園児姉妹が来た。“お爺ちゃんが、外で覚えてきたら遊んであげる”との事であった。2~3年もすると強くなって“お爺ちゃんとは遊んであげられなくなった”とか。昨年、“週刊碁”で、高校女子部団体戦で、準優勝の由であった。

 日祭日以外、12時から時に8時過ぎ迄、自由度のない稼業?を続けられるのは、囲碁好きも然りながら、引き難い意地と、斯様な人間模様の魅力所以であろうと思っている。
   
   

 
 第15回 大学における囲碁活動   石井 勝

1 囲碁仲間とのかかわり
 大学に勤務していた折りの囲碁活動について記してみよう。平成元年開学の北海道情報大学でのことである。
 平成13年の春、学生が5名(全員1年生)私の研究室に来て、「囲碁を教えてください。」という。3名は3級程度、2名はほとんど初心者という。
 私「なぜ囲碁に興味をもったのですか?」、初心者の一人H君(一番熱心で後に初代囲碁部長となる)をはじめ皆が、「勝負事を通して知的能力を磨くことができると思う。 ヒカルの碁をみているが楽しそうだ。」という。 また、「課外時間を有効活用して囲碁を強くなりたい。」という。当時私は学生委員であり、学生の授業外の教育的な活動を奨励する立場にあった。彼らの希望に応えることになった。彼らは大学での最初の囲碁仲間となり、4年間の付き合いとなった。
 大学(学生課)と相談し、当面は囲碁同好会とし、実績を積んだ段階で「部」とすることを検討するということになった。
 以来、2年間は課外時間に、私の研究室あるいは空教室で、私の碁盤・碁石を用いて囲碁同好会活動が行われる。後半の2年間はH部長の尽力で実現した「囲碁部」として、部室で3寸碁盤や大盤を用いて、後輩たちを交えての囲碁活動となる。その後も顧問を続け、都合9年間囲碁仲間と関わっていくことになる。

2 囲碁ルールの習得
 初心者に対しては、対局というよりも囲碁のルールを解説することが主であった。
 囲碁の基本ルールについては、経験者が多くいたためか、ヒカルの碁のせいか初心者も比較的早く習得できた。とはいえ着手禁止点(打ってはいけない場所)がある、と着手禁止点の例外があるという点については相当の確認活動が必要であった。
 最初から、対局しながらの囲碁習得・囲碁力向上の活動とした。「お願いします。」と、H君の挨拶はいつもさわやかだ。
 初心者への指導の際に苦心したこと、何度も繰り返し確認した囲碁の技法(手段)については、私が実践したことを、その2年後に刊行された「囲碁で養う考える力」(東大教養囲碁講座:石倉昇氏ほか著:光文社新書)で適切に示されているので、H君の対処の様子を入れながら用いさせていただく。
  (1)まわりにきたらご挨拶。(相手の着手に対して一呼吸置くこと、H君は比較的適切に対応)
  (2)「入れてください」に対して「入れません」と打つ。(自分の陣地となりそうな所に相手の石が
     きたら無視せず対応する、H君は比較的適切に対応)
  (3)ナナメにご用心。(石のつながりの確認・切りの不安への対処とはねて攻勢できるかの確認
    H君は用心し過ぎで、はねて攻勢の部分の訓練に時間を要した)
  (4)自分の用心。(自分の弱い石を大事にすることについて、H君は比較的適切に対応)
  (5)自分の弱い石から動くことを検討する。(H君は石の強弱の判断に時間を要した)
  (6) キリチガイは、場合によって対応を変える。(ここに場面を好転させる機会があると思うが、H
    君はそのことに気付くのに時間を要した)
  (7)離れてきたら離して打つ。むやみにツケない。(相手の石に付き合うだけでなく自分の石の
    配置をよく考えること、H君は比較的適切に対応していた)
 初心者であったH君は卒業時には有段者格となっていた。

3 囲碁部としての活動
 平成15年度からは「部」として認められ、部室が与えられた。H部長と話し合いを繰り返し、「部則」を制定し、ルールだけでなく(その前に)部員に対して囲碁マナーの徹底を図った。
 「囲碁部部則」は、1.活動目的、2.活動内容、3.組織、4.会計、5.部室(の管理)からなる。
このうちの1.活動目的について記す。
 (1)大学生活で仲間とともに生涯熱中できるゲームである囲碁を楽しむ、
 (2)囲碁を通して多くの仲間を作る、
 (3)囲碁を通して様々な発見をし、向上心を養う、
 (4)囲碁を通して社会マナーを身につける。
 囲碁を通して、楽しむこと・向上を目指すこと・協力しあうこと・囲碁マナー(社会生活においても大事)の日常化ということを重視した。
 部活動としては1月の碁盤開きにはじまり、部内囲碁対局・大会、学内囲碁大会(部外学生・院生や教職員にも公開)の開催、全道大学囲碁選手権大会への参加、市民に開かれた囲碁交流教室の運営などを行い、年末の碁石洗いで一年を締めくくる。最初の年の年末にH部長が自発的に部員たちに指示して碁石を洗い碁盤を磨いている姿に私は顧問を引き受けてよかったと実感した。
 同好会時代の実績として、実力のある後輩(六段、三段)の参加があり、全道学生囲碁選手権大会では北大に次ぐ成績をあげ、また、六段の学生が北海道大会を勝ち抜いて全国学生本因坊戦に出場することがあった。

4 囲碁を通じての交流
 囲碁部は部内での囲碁対局に限らず、部外の人たちとも囲碁を通じての交流を行いたいと考えた。
 平成15年度に第1回北海道情報大学学内囲碁大会を開催し、学長・学部長のご理解を得て、立派なトロフィーを用意し、毎年継続のその争奪大会となり、今日に続いている。
 また、同年の大学祭では、「囲碁教室」を開催し、学生・教職員に加えて多くの市民の参加があった。「初めてなのです。」という小・中学生にH部長をはじめ部員が熱心に教えているのがほほえましかった。これは、翌年から、「囲碁交流室」と名称を改め、大学祭のメイン活動の一つとして定着した。平成23年度にはプロ棋士の遠藤悦史七段をお招きし、大盤囲碁講座や多面打ちのご指導をいただき、盛況であった。
 退職後囲碁部は、二名の教員が顧問を引き受けてくれて、この活動を継続しており、学内囲碁大会には今もお招きをいただいている。
 囲碁の力とは人と人とを友好的に向上心をもって結びつけることではないかと思う。
 H君をはじめ当初の5名の学生の熱意と努力に私は若者の向上心と協力し合う気持ちをみた。それは、後輩たちに受け継がれ一貫する囲碁部員の姿であった。囲碁仲間との交流を懐かしく思い出している。


   
        学内囲碁大会の様子(平成20年)   創部当時の囲碁部員と協力してくれた教職員たちと
(平成15年)


  第14回  中南米の国々         湯浅 荘三郎
 

 小生はサラリーマンの現役時代、主に中南米を相手に商売をすることが多かった。駐在はメキシコシテイー(1979年‐83年)、チリのサンチアゴ(88年―93年)、メキシコのテイフアナ(2002年―2007年)と三度で通算15年になる。
 日本から見ると中南米は少々遠い。メキシコのマリアッチ、チリの鮭とブドウ、ブラジルのサッカー等が日本人には親しみ深いと思われるが、実際にどんな人が住んでいて、政治はどのように運営されているかは殆ど知られてないのではなかろうか? もっともSIIGはキューバの囲碁界とは親しい故、何度も旅行してキューバの政治経済の事情は良く分かっておられるかも知れない。
 一般に中南米と貿易をする時は『引っかかりに気をつけろ』と言われる。実際小生も現地で不払いを食った事があり、本社から散々叱られた思い出がある。ただ現地に行ってみると分かるが、最初から先方が当方をだましてやろうと考えて罠を仕掛けてくるケースは殆どない。最初は払う気でいるのだが結果的に資金繰りに行き詰まり払えなくなるというのが真相である。
 『アスタマニャーナ』いう有名な言葉がある。これは直訳すると『明日払う』という事なのだが、実際の意味は『1週間後ぐらいに払うかもね?』くらいの意味である。小生など最初は正直に『強くプッシュしたところ明日払うと約束しました』などと本社に報告したところ、全然払ってもらえず『おまえはバカか?』と本社に叱り飛ばされた事が良くあった。だんだんわかってきた事は、中南米では『明日』は1週間ぐらいで、相手が『1週間待て』と言えば大体一ヶ月くらい、最初から『一カ月位』と言い出すとこれは支払いが相当に難しそうだな、という事が分かって来る。従いそのように本社に報告して用心しながら商売をするわけである。
 中南米の人と付き合う時は『相手は本能のままに行動する』と考えておくとあまり判断を間違わない。すなわち現金大好き、女性大好き、支払いはルーズ、である。これが分かって来ると大体相手の考える事が分かる故、こちらも対処が容易になって来る。
 ただし中南米の中でもチリだけは違う。チリは歴史的な関係か社会(政界、財界)の上層部をドイツ系移民の子孫が多く占めているためドイツ人の性格を忠実に引いている。実際メキシコで社員が残業をするなど殆ど考えられないが、チリ人は残業をするから驚く。また中南米相手ではたとえば受け取った商品が品質が悪い場合相手にクレームしてもまず先方はこれを認める事は無い。ところがチリは例外である。本社が大量に木材を輸入した時に一部不良品が見つかったのでクレームしたところ、先方は契約に基づいてきちんと賠償金を払ってきたのである。メキシコの不払いに慣れた小生等はそれを知って本当に驚いた。この性格のせいかチリは中南米の諸国の中で一番堅実に経済を運営しているように見える。
 駐在時代にはその国の政治的経済的大事件にぶつかる場面が何回かあった。最初のメキシコ駐在時代に大統領はロペス.ポルテイージョという人だったが、79年に小生の赴任当初はメキシコの石油ブームで世界各国から石油を求めて要人がPEMEXに殺到するという状況だった。日本の銀行もメキシコに金を借りてもらおうと支店の新規設立を行い、1年に何行も進出してくるという状況だった。ところが放漫経営のため国家財政は破綻の状況となり、82年に大統領は全銀行の国有化という大暴挙を行った。我々外国人が銀行にしていた預金は凍結となり、日々の現金の出し入れにも制限が掛る状況になった。こういう事は日本にいてはまず経験できないと思う。
 88年のチリ時代にも面白い経験をした。丁度16年続いたピノチェット将軍の終わりの時で、選挙で  『YES』 OR 『NOT』  を問うというのである。毎日反対派が街頭をデモするが、そうすると警官隊が出て催涙ガスを発射する。困るのがそのガスが我々事務所の中まで入って来るのである。そうなるともはや仕事等出来る状況でなくなり、社員は全員早引きさせるということが何回かあった。夜はゲリラが電柱を爆破するのでしょっちゅう停電が起きる。各家庭はそれに備えて懐中電灯を用意するという状況で、平和な日本ではまったく考えられない状況だった。選挙の結果は『軍政に終止符を』という側が勝ち、これにピノチェット将軍が素直に従ったのには驚いた。その後左派が政権を取ったわけだが、経済についてはピノチェット将軍の敷いた自由経済体制をそのまま引き継いだため国は混乱せず経済は順調に成長し、今や中南米随一の安定度を示している。
 なおピノチェット将軍については、日本ではアジェンデ共産党政権をクーデターで倒した時に左翼の学生2千人ほどを殺し行方不明にさせた極悪人、とマスコミが報じているが、現地で生活してみるとかなり話が違って、彼は共産党政権の圧政から国を解放したのであり、左翼学生を殺したのも内戦で戦争をしていたのだから仕方ない、という考えが国民の半数近くにあり、88年当時でもピノチェットを支持するものが40%を超える比率でいた。これは現地に行かなければ分からない事で、日本で聞いた話とだいぶ違うなと感じた。
 小生は2008年にSIIGに入れてもらって以来、何人かメキシコ人の棋士と付き合っているが、これが小生が現役時代に付き合っていたビジネスマンとは全く品性が違うので驚いている。キンテロ先生が,その代表だが知性に富み、礼儀正しくて親切、最初この人は本当にメキシコ人か?と驚いた次第である。やはり住む世界で人格は変わるのかも知れない。ただチリ人は他の中南米に比べて上から下まで紳士的な人が多いと感じるのは小生のひいき目だろうか?
 小生にとっては中南米は天国である。ピストル強盗に襲われた事もあるし、街頭スリに襲われた事もある。だけどそれは世界中どこでもある事で何も中南米に限らない。とにかく中盤米の人と付き合っていると明るいし肩がこらないし楽しい。歌はうまいし女性は綺麗だし。
 幸いSIIGにスペイン語が堪能な人が少ないので、小生は通訳。翻訳で良く使われる。自分の能力が少しでも世の中のためになるのであればこんな嬉しい事は無いので、今後とも微力ではあるがSIIGの活動に貢献したい。今後ともよろしくお願いします。

                                                     

     
  メキシコシティーで勤務   していたビル    チリのサンタマリア大学での友好対局   来日したキンテロさんを迎えての歓迎対局
     
 メキシコ独立記念日のパレード   メキシコシティーのマリアッチ
  ガリバルディ広場周辺
    チリの我が家から見た
  アンデスとサンチャゴ市街



 第13回  夜間救急と死活の基本

                      杉目正尚(なんでも内科)

囲碁上達の秘訣を聞かれたとき私はいつも『死活の基本を勉強すること』と答え、 『基本死活辞典上巻・日本棋院2200円』をお勧めする。死活とはある形の石群がその後生きるのか死ぬのかを考えることである。生死の結末にもいろいろ段階があり『完全生き』『半生き』『コウ生き』『セキ』『半死に』『完全死に』に分かれ、それぞれ『先手の場合』『後手の場合』で区別して理解できなければならない。
 特に6目と8目のスペースが問題で、隅か辺か、1線の開き具合、ダメの詰まり具合、ハネの有り無しなどなど、この本にはやたら詳しく記述されている。例えば全てのダメが詰まっている隅の8目の場合、相手が打ち込めばセキになるのだが、打ち込む点によって先手か後手の違いが出てくる。私はこのくどさが大好きだ。
 死活の一部を取り出して問題にしたものが詰め碁である。高段者の試合では数個の石の頓死で勝負が決まってしまう。一度の失敗をよく検討してその場で身に着けるか、何度も石を死なせて経験で覚えていくかで、上達のスピードが違ってくる。
 ここからは医療の話・・・一次救急の現場では、この死活の基本ができているかどうかが問われる。腹が痛い、頭が痛い、熱が下がらない、胸が苦しい、尿が出ない、血を吐いた、眩暈が止まらない、切った、折れた、針が刺さった、蜂に刺された、深夜の気持ちは病人と医者しか分からない。この世に私とあなた以外だれもいないような気持ちになる。どんな方法でも良いから先ず痛みを止めること。とりあえずそれで90%満足してもらえる。後は明日につなげる治療方法を考え説明し話し合うことだ。夜中だからと言って手抜きをするととんでもない間違いを犯す。
 今ある痛みの原因は何か?一時的なものか進行性か?ほかに持病はないか?アレルギーやショックは心配ないか?痛み止めはどこまで使えるのか?急な頭痛、胸痛、腹痛などは痛み止めのほか、血液、尿、心電図、レントゲンなどの検査が必要だ。
 いろいろな病気を考え点滴をしながら様子を見る。脳卒中、心筋梗塞、腸閉塞などの所見が見られたらCT、MRIなどの検査等を求めてすぐ専門家へ搬送しなければならない。救急病院での研修医時代にこう習った。『まず今得られている情報だけで自分なりに仮診断せよ。そして当面の治療が必要なら初めよ。それから上に相談せよ。治療と検査は平行して進めよ。すべての患者をセンター病院に送るだけなら知識も経験も要らない。』

囲碁の話にもどるが『半生き』とは相手(病原)の攻撃に対して、正しく対応(治療)できなければ死ぬかもしれない状態であり、『半死に』はその逆でこちらがいくらもがいても相手が正しく攻めてくれば死に至る状態である。このへんを長考する事こそが囲碁の醍醐味と考える。そう、救急と違って囲碁は死活に関して長考できるところが良い。

(やぶ医後談)田舎の少々暇な病院などで当直をする夜はだいたいネット碁で時間をつぶしています。救急車が来ると相手に事情を伝えて中断か負けにしてもらいます。そんな時この文章を思いつきました。

  

         焼尻島診療所                       奥尻島病院                           


第12回 交野発「出前碁クラブ」 奥村 佐二郎

 

1.まえがき
 仕事現役世代はほとんど仕事に時間を費やして、趣味を顧みないで、仕事をやめてからどうやって時間を過ごすか戸惑う人がたくさん居られると聞きますが、私達「囲碁国際交流の会」に所属している人はそんなことはなく、楽しく余暇を過ごしていると思います。幸い私は大学の頃囲碁を覚え、就職してからは囲碁を打つ機会はあまりありませんでしたが、新聞碁を見たりNHKの番組を見たりして、何とか棋力は衰えていなかったようです。55歳の頃、「星田囲碁友の会」に土、日と行かせてもらうようになって碁を打つ機会も増え、また碁盤と碁石をそろえるようになったせいか、入会当初、初段程度だった棋力が今は3,4段程度(KGSではIKないしは2K)になっていると思います。その他会社にいる頃に付き合いで始めたゴルフや退職後(68歳)から始めた水彩画など、多くの趣味に恵まれ楽しく過ごしております。
 しかし、ただ自分が楽しむだけでなく何か役に立つことが出来ればこれ以上のことはない、という思いはあり、菅田氏と知り合いになったこと、私の妻もこんな考えを持っているということ、などから「出前碁クラブ」の会長を引き受けることになりました。

2.「出前碁クラブ」の歴史
 「出前碁クラブ」が出来たのは平成22年1月で、当初、菅田氏が一人で「交野市ボランティアセンター」の1グループとして始められました。囲碁が好きだが身体が不自由なために出かけられず困っておられる方に、当方から施設に出向いて囲碁のお相手をさせて頂くという趣旨です。特に指導をするという趣旨ではないのですが、時には全くの初心者に九路盤を使って教えることもあります。その後1年ほど経過して出先が増え、菅田氏一人では対応できなくなり、私に声がかかりました。私と菅田氏は「星田囲碁友の会」の仲間であり、また「囲碁国際交流の会」への入会を勧めていただいたこともあって、かなりの親交がありましたので、快く引き受けました。
 その後出向き先が増えたり減ったりしていますが、1ケ所4,5名の相手をする必要があったりするので、26年2月現在出前碁棋士は7名に増えており、出前の頻度は、2週に1回出向く程度です。今後出先が増えた時は、また「星田囲碁友の会」のメンバーや、その他囲碁で親交のある方にお願いしたいと思います。出前碁棋士は交野市在住の方がほとんどですが、山本氏(「囲碁国際交流の会」メンバー)は東大阪市から来て頂いており、大変感謝しております。

3.「出前碁クラブ」の会則
                     平成25年2月 1日  制定
                     平成25年9月10日 一部改訂

 第1条(名称、所在地)
  1.この会は「出前碁クラブ」という。(以下「本会」という)
  2.本会は、交野市南星台4丁目11-5 内に置く。

 第2条(目的) 
  身体が不自由な囲碁愛好家のために、施設等に出向き、囲碁の対局を行う。

 第3条(運営)
  1.代表1名、会長1名、幹事若干名で運営委員会を構成する。
  2.運営委員の任期は、年度初め(4月1日)より3年間とする。
  3.毎年度末に会議を開き、次年度の運営全般について協議する。

 第4条(活動)
  1.依頼者より市立ボランティアセンターを通じて依頼を受け、施設等に出向き
    囲碁対局を行う。
  2.会員相互の交流と活動報告のため、必要に応じてグループ打ち合わせ会を開く。

 第5条(会計)  
  1.本会の活動に関わる経費は、すべて会員個々の自己負担とし、会としての会計は
    設けない。
 第6条(会則の変更)
  運営委員会で協議し、出席者の過半数で決定する。

 第7条(附則)
  この会則は、平成25年2月1日より実施する。

4.代表、会長、幹事の役割
 代表はボランティアセンター、出前先施設との交渉など外向きの仕事を担当し、会長は出前棋士の出前先の割り振り、日程の調整、また出前棋士が不足した時の出前棋士の募集など、内向きの仕事を担当しますが、これは独断でなく、年2,3回の全員集会や連絡などで幹事を含めた全員の意見のもとに決定します。

5.出前先相手の棋力
 出向く先の囲碁相手の棋力は様々で、下は九路盤の初心者から若い時は5段だったという人までおられますが、今はおおよそ1,2階級は下がっているようです。
 当初は相手先の意向に従って置き石を決めますが、勝ったり負けたり、になるように置き石を決め、楽しく碁が打てるようにしております。また大石を取ったために相手が不機嫌にならないよう、出来るだけ石を取らぬように、仲間内で話し合っています。

6.今後の方針
 この「出前碁クラブ」の出前先は、交野市内に限定しているため、あまり広範囲にはなりませんが、40~50位は施設があり要望があれば応じる積りですので、これからも「出前碁棋士」の補充は必要と思われますので、「星田囲碁友の会」以外の方にもお願いして「出前碁棋士」になって頂きたいと思っています。
  

                 出前碁の対局風景



第11回 草の根「こども囲碁土曜教室」 菅田浩嘉


  
地元の市民センターで教室を始めて今年で5年目になる。スタート時は生徒が二人(小三)であったが、年々増加して昨年末には12名になった。昨年初めは、7名だったので一度に授業が出来たが教室のスペースが狭く(最大10名程度)、昨秋9月から上級者と初級者を分けて2部制の授業になった。

1.教室の立上げ

囲碁と言うこの素晴らしいゲームを一人でも多くの子供たちに伝えたい、という個人的な思いから始めた「こども教室」が、次第に仲間たちの共感を呼び、今では延べ10人以上の協力者が講師(先生)として教室運営を担っている。この仲間たちとは、「星田囲碁友の会」(*1)の会員の皆さんである。

教室の場所は市民センター2Fの「研修室」で、友の会の例会場(和室)がある通路を挟んで向かい側になる。そして教室は毎週土曜日、午後1時から4時まで、正月松の内とセンターの休館日を除いて、欠かすことなく開かれる。
とくに教室開設にあたって、友の会会長の多大なご理解と協力があった。
 開設時に市の広報誌による募集で参加してきた2名の生徒を、一人で担当することは難しいことではなかったが、漸増して4,5名になると、しかも個々の棋力レベルの差が大きいと、とても一人で授業を担当することが困難であることに気づいた。そこで、会長と相談した結果、「こども教室」を会の主要事業として位置付けて、会員の協力を求めることにした。
 会の事業にするための会則変更と合わせて、私の子供教室担当副会長就任を翌年初めの総会で決定した。その時私は、「もう後には引けないぞ、しっかりやろう。」と覚悟したことを憶えている。

2.講師と生徒

まず、授業担当の講師(先生)の募集について、友の会会員約50名全員にアンケートで、月に一回、または二回の講師をお願いできるかどうかを訊ねたところ、8名の協力を得ることが出来た。教室担当として、この数字は正直嬉しかった。
 8名居れば、講師の「週2名体制」が取れるからである。
 教室での講師の役割は、①指導碁による個人別指導 ②生徒同士の対局時の指導(正しい対局方法)および終局の確認 等である。
 次は生徒募集である。年に一度の市広報誌での募集だけでは、明らかにPR不足なので、ポスター(A3サイズ)を作り市内約40ヶ所にある市の広報板に張り出すことにした。
 市役所に出向きポスター掲出の許可を貰い、全くの素人が作った手製の募集ポスターを、所在地名簿を頼りに広報板を探し当て、一枚一枚張り出して廻った。
この張り出し仕事は結構時間を要した。正月明けから精力的に活動したが、ほぼ張り終えたのは2月末ごろだった。ポスターの掲出は広報板だけでなく、市内3箇所の図書館(室)にもお願いした。
 この広報活動の結果、初年度の年末には生徒が増えて、正味6名(8名入会し2名が退会)になった。
 生徒の学年は小一が3名、小三が2名、小五が1名で、ほとんどが初心者であった。

その後も、このポスター掲出は毎年継続し、その掲出先も市の広報板や図書館に加え、有志の仲間の協力を得ながら自治会の掲示板、近隣のスーパーや馴染みの飲食店、さらには銀行の支店にまで拡大した。

3.保護者

 生徒の保護者との関わりは重要である。入会希望の子供を連れてくるのは、ほとんどが母親である。
 初対面の面接では、まず授業を見学した後に即入会を希望する保護者から、基本的な情報をいただく。
  その情報とは生徒の学年、学校名、住所、保護者への連絡方法(電話番号)である。そして、当方からは、連絡用として教室担当者(私)の携帯番号の告知、および教室の概要と保護者としての留意点等を説明する。
 とくに大切な留意点としては、①授業の始まる時間に遅れないこと ②遅刻や休む時は、出来るだけ早く連絡すること、 をお願いする。
 3年目から保護者との「懇談会」(年一回)を実施している。その時期は新年度に入り早期(2~3月)に開催する。その目的は、主に保護者からのご意見要望を直接お聞きすることによって、今後の教室運営に役立てよう、というものである。
 夏休みに入って間もなく、二人の兄弟生徒の母親から「盆前の教室をお休みにしていただけないでしょうか」と言う申し出があった。その理由を聞くと、久しぶりに祖父母も揃って家族旅行を計画したところ、二人の子供(孫)たちが囲碁教室を休みたくないので行かない、というのだ。これは大変だ、こども教室があるために家族の大切な旅行を妨害するというのは、もとより本意ではないので、「解りました。盆前の土曜日はお休みにします」と即答してしまった。実はこの後が大変だった。その一週間前の教室で、突然ながら「来週はお盆なのでお休みにします」と告げたところ、生徒たちから「えー、何でなんでー」と言うブーイングに近い声があがった。「日本では昔から「盆と正月」という言葉があるように、世の中の皆がお休み、、、、」などと苦しい説明をしても、ほとんどの生徒が納得しない。結局、教室は休みにするが、先生は来ているので希望者は出席してもよい、という曖昧な形で決着した。このことがあってから、講師先生がたと相談した結果、次年度から定期休日として正月休みに加えて「盆休み」を設定した。

4.授業

「級位認定」

2名の生徒から始まった教室も生徒の数が増えるにつれ、生徒同士の9路盤対局が進むほどに個々の実力差が顕著になり、互い戦からハンディ戦への移行が必要になってきたので、年末に初めて6名全員の「級位認定」を実施した。

    

  級位認定記念写真(上に示す)の生徒達(1名欠席)の嬉しそうで、かつ神妙な表情に少し感動した。
 この級位認定は、過去の生徒同士の対局結果に基づいて私と会長の二人の合議で決めるという、いわば独善的な教室内だけの認定級位(初段~38級であったが、予期せぬ大きな効果が生まれた。
年末最終の授業で、来年度の目標級位を一人一人訊ねて具体的に設定した。このことが、生徒の目の色を変えたのか、新年からの「ハンディ戦対局」で明らかに熱気が増してきた。そして1ヶ月毎の6名によるリーグ戦対局の結果により、月初めに成績優秀者の「昇級」を発表することにしたところ、自らが決めた目標級位に向かって強くなりたい、という願望が見え始めた。月初めの教室の黒板に先月一ヶ月分の全員の戦績を予め記入してあり、それを大盤で見えないようにしていると、授業前に僅かな隙間から覗き見をする生徒も出てきた。
  昇級者の発表で大切なことは、他の生徒全員の合意である。全員の合意を得るためには、予め具体的な「昇級の条件」を知らせておくことが必要である。即ち、1ヶ月の対局で5局以上の勝ち越しを最低の条件として、さらに好成績の場合には、飛び級もあり得ることを承知させておく。このことによって、他の生徒の納得が得られ、昇級者への大きな拍手が生まれる。
  級位認定に至るまでの経緯には、思いがけないことがあった。勝敗を決めるための終局、整地の後の目数計算が全て足し算(1,2,3、、、)なので時間がかかる。一目ずらせば10目になる掛算(2×5)を示すと、「掛算は知らない、学校で習っていない」との返事には少々驚いた。小一の算数のカリキュラムにはない「掛算の授業」を暫らく続けることにした。それでも、生徒が優秀なのか、簡単な掛算を理解するのに多くの時間はかからなかった。

「礼儀・マナー」

とくに低学年の生徒に、守るべき礼儀やマナーを教えるのは難しい。「なぜ対局
の前後に挨拶をしなければならないのか」「なぜ碁笥の中に手を入れて、ガチャガチャ音を立ててはいけないのか」等の簡単なことでも、理屈で理解させることは容易でない。しかし、級位認定以降は対局態度に大きな変化が見られるようになり、礼儀やマナーも格段によくなってきた。 「礼儀やマナーを守れば、囲碁が強くなる」強くなりたいという気持ちが出てきた生徒に、この言葉は効果的であった。
 そして、小一の生徒が着手時に左手で碁笥から石を一つ取り出し、利き手の右手の小さな親指と人差し指の間に挟ませるしぐさを見たとき、その素直さと可愛さに思わず、心から強くなって欲しいと願った。
 授業の内容が、2年目になりほぼパターン化してきた。
 即ち、毎週土曜日、早く来た生徒が自発的に用具(碁盤と碁石)を準備して、1時から ①始業の挨拶(生徒と先生が対面し互いに目を見て「今日もよろしくお願いします」)着席後 ②棋力向上のための基本定石、布石、または詰碁等の学習 ③ハンディ戦対局(リーグ戦形式) ④終業の挨拶(用具を片付けた後、全員で「ありがとうございました」)の繰り返しである。礼儀やマナーの習得には、基本的に繰り返しが必要である。
 一方、3年目になると生徒同士が仲良くなり、教室内の緊張が次第に薄らいできた。中には対局中に口笛を吹いたり、歌をハミングする生徒も出てきた。意識的ではないにせよ、その場で厳重注意し、次は即退室させることを明言した。それでも完全には良くならない。暫らくすると今度は別の生徒がマナー違反をやらかす。またその場で厳重注意、この繰り返しである。
 4年目の春には、市民センターの裏庭に咲く満開の桜の木の下で、「花見授業」を行った。日本の囲碁は室内ゲームという印象があるが、外国では屋外対局も一般的であることを体験させた。初体験のためか、生徒たちの対局態度に少し緊張感が漂っていて微笑ましかった。

        

「精勤賞」

教室開催回数は1年目が42回、2年目が46回であった。各回の対局結果の記録は当然ながら、生徒の出席実績も大切なので欠かさず記録していたが、2年目の結果を見て驚かされた。もともと出席率が良いのは毎回の授業を通じて感じていたが、年46回で3回しか欠席していなかった生徒が二人もいたことには驚きとともに感動した。その3回も学校行事のため休んだのだという。
 早速、会長と相談して「精勤賞」(学用品)を創り、新年初回(初打ち)の授業で二人を表彰することにした。

        

この二人のほかの生徒も出席率がよく、欠席は殆ど10回以下であった。一保護者から、「うちの子供は、毎週土曜の昼から囲碁教室に行くことが、習慣になっている」という話を伺った時は、有難かった。
 その後も、生徒の高出席率が続いているので、毎年この賞を継続している。

「対外試合」

3年目には、初めて対外試合(こども囲碁大会)に全員(初段H君を除く)が
参加した。生徒個々の実力に応じて9路、13路コースで対局した結果、全員が好成績を挙げ、生徒同様大会を指導者として初めて経験した私を含め、講師達も大喜びした。私たちが何の根拠も無く認定した教室級位が充分に対外に通用したのである。と同時に大会参加者の大半が19路コースであったことで、その翌週から早速13路盤を廃止して19路盤(大人と同じ)に変更した。 
 それ以降、九路コース(初心者)を卒業した生徒は即19路コースで学習することになった。
 4年目になると、19路盤での対局が生徒の意欲向上に役立ったのか、保護者から囲碁大会への参加希望が多くなり、その結果、教室の認定級位以上の成績を挙げる生徒が出てきた。
 その一例がI君で、小6の時に5級で入室して、中学一年で教室初段になった翌月の大会で、二段の認定を受けたのには、正直驚いた。実にこどもの棋力向上のスピードは大人の想定以上のものがあり、指導者の一人として認識を新たにした。
 今年、彼が見事な成果を挙げて教室を卒業したことについて、私たちは大きな喜びを感じている。

5.結び

  囲碁というゲームがなぜ素晴らしいかといえば、それに巡り合った人の人生をより豊かにするからです。
 
だからこそ、この囲碁を愛する子や孫の次世代に伝えたい、という気持ちは、私だけでなく囲碁愛好家の多くの方々が持っているのでしょう。その一方で、それがなかなか具体化できないのも現実なのです。
 私は、その具体化の一方策が、囲碁愛好家による「こども教室」の主宰であると考えています。
 しかし、「こども教室」の実態はと言えば、甚だお寒い限りで一般にはその数は決して多くありません。関西では「棋院」の普及事業による教室を始め、一部の志ある専門棋士の教室がほとんどで、当然ながらその数は限られています。一般では、一企業のバックアップによるこども教室が目立っていますが、それ以外はほとんど見当たりません。
 私の地元、大阪府下の交野市についていえば、人口約8万の小市ですが毎土曜日に開催する「こども教室」は他にありません。他方、地域には数多くの「囲碁クラブ」や、最近減ってきたとはいえ「碁会所」もありますが、これらは皆大人たちのためのものです。
 私たちの子供教室の立上げは、その諸条件において多分にラッキーな面がありましたが、この拙文がヒントになり読者によって一つでも新しい「こども教室」が地域に立ち上がれば、私にとってこれ以上の喜びはありません。               (完)

*1星田囲碁友の会:交野市星田地区に36年前に発足した地元の愛好家による囲碁クラブ、現在の会員数は60名(大人48名、こども12名)
   例会日は毎週土、日曜日。年会費 大人5,000円、こども2,500円

   第10回「震災ボランティアと囲碁交流」増田 昌昭

◇ボランティア初体験

東日本大震災をタイで知った。森野九段の囲碁ツアーの最終日だった。ホテルで一晩中NHKの衛星放送に見入っていた。なかでも真暗いなかで赤々と燃える気仙沼の映像は衝撃的だった。

震災から半月ほど経った頃、原発事故の影響で物流が途絶え、市の職員が物資を運んでいるという新聞報道があった。南相馬市の社協に電話すると“お願いはできないが来てくれたらうれしい”とのこと。囲碁や弓道の仲間からカンパや支援物資をたくさん託された。東北道に車両は少なかったが自衛隊、警察車両、消防関係者が車列を組んでいた。郡山からは一般道を20km圏を迂回しながら走った。山あいの道には抱えるほどの岩が転がっていたり、大きな亀裂が口を開けていた。

現地に着くとちょうど支援物資の配給の日で、社協横のホールには長い行列ができていた。スーパー、コンビニも閉まり生活物資は並んで手に入れるしかなかった。並べる人はまだ良かった。病院が閉鎖となって家に戻された人や足の不自由な人など配給場所まで来ることのできない人は孤立した状態だった。こうした人たちへの物資配送や安否の確認などはこの時期、ボランティアに委ねられていた。ボランティアの数は少なかったが、それでも九州や関西からも駆けつけてきていた。京都大学の大学院生は原子力工学が専門で計測器も持参していた。彼が逃げ出さない限りは大丈夫と軽口を叩いたりした。

現地では生野菜が極端に不足していた。SOSを発したら、囲碁や弓道の仲間からほうれん草や自宅菜園の野菜をたくさん送ってくれた。帰るとき、保健所で自衛隊のスクリーニングを受けた。結果は“不検出”だった。

◇気仙沼訪問

「気仙沼で囲碁大会が開けるかもしれない。」交野市で出前碁の活動をしている菅田さんからそんな連絡が来たのは3回目の南相馬行きのときだった。出前碁の仲間と話し合って、囲碁の支援ができないか被災地の社協に電話をかけまくったそうだ。タイのホテルで見た火災の映像が蘇った。

詳細を確認すべく一日、同行の友人たちと別れ、三陸沿岸を北上して気仙沼へ向かった。途中、街全体が消失した南三陸の惨状には息を呑むばかりだった。両親を津波で亡くされたガソリンスタンドのご主人は違反を承知で震災の翌日から店を開けたと話してくれた。寸断された道を迂回しようやく気仙沼に着いた。港へ通じる道路は冠水し、信号器もなく商店街は廃墟となっていた。

社協で担当の方にお会いし、会場候補の避難所の市職員にもお話を伺った。囲碁大会ができそうな雰囲気とはほど遠いことが分かった。気の毒がった社協の女性が高校囲碁部の顧問をされていたYさんを教えてくれた。Yさん宅を訪れ、囲碁サロンが津波で流されたことを知った。席亭だったSさん、気仙沼支部のまとめ役だったOさんといった囲碁関係者の連絡先が分かったのは収穫だった。

◇囲碁交流

こうして翌月から気仙沼通いが始まった。昼間はボラセンで作業をし、終了後、Yさん宅で碁を打ったり、Sさんの仮設にお伺いしお話を伺ったりした。Yさんとの最初の手合わせは、私が勝ったが、その後、雪辱された。

Sさんは小学校の元校長先生で、退職後囲碁サロンを始められたそうだ。何人かの常連の方も犠牲になった。“今は碁を打つ気にはなれない。”と言う。

Oさん宅は気仙沼湾を回り込んだ高台にあった。海沿いの道は満潮時には通行不能になる。途中、黒焦げの船体や民家がまだ残っていた。とても気さくな方で手持ちの原木から作らせた本榧の5寸盤がご自慢だ。対局をしているうちに暗くなってきた。カツオがあるので泊まっていけという。それ以降も地酒をいただきながら何局か対戦したが、手厚い碁を好まれた。

あるとき、福祉囲碁の関係で毎月お伺いしているさいたま市のWさんから碁盤を託された。引取りに伺うと桐の箱に入った本榧の盤だった。辞退したがもう自分には必要ないので、お役に立ててほしいという。Oさんに相談し、気仙沼の碁会所に寄付することにし、再開するまで預かってもらうことにした。

◇仮設囲碁サロン

何回目かの訪問で、気仙沼に仮設の囲碁サロンが出来たという話を聞いた。不動産関係のお仕事をされているSSさんという方が、囲碁サロンの跡地を借りて、ホームセンターで資材を調達し、自力で建てたという。現地でお会いすると原っぱに6畳間ほどの小屋があった。日本棋院からは碁盤や碁石が贈られていた。電気は車のバッテリーからとっているが,直ぐにあがってしまった。

帰宅してこの話を発信したら、菅田さんや森野先生を始め、SIIGや福祉囲碁の有志の方からカンパや囲碁の本を頂き、お届けすることができた。翌月、仮設囲碁サロンにはソーラーパネルが設置されていた。SSさんは地元の強豪で互先では分が悪かった。

◇地元囲碁大会への参加

震災から1年経ったころ仮設のSさんを尋ねると、退職した先生たちの会が復活したという。次回は6月で外部から飛び入りも歓迎ということだった。囲碁仲間に発信したら、荻野さんと加納さんから返事があった。加納さんは福祉囲碁協会の渉外担当理事で、外部とのネットワークをたくさんお持ちの方だ。せっかくなので、ボランティアも入れた3泊4日の日程にした。男2人が作業している中、彼女は市役所や商店街を訪ね、地元の特産品を調査してまわっていた。後日、日本棋院で開催された囲碁大会の賞品は被災地の特産品が採用された。囲碁の集まりは、高台の公民館で行われ、飛び入りの3人は勝ち負け相半ばの成績だった。夜は地酒を飲みながらお話を伺うことができた。

昨年の秋、仮設のSさんが“子供たちに算数を教えながら、碁も教えようかと思っている。”と話してくれた。干し柿仲間の大須賀さんからカンパもあり、初心者向けテキストや9路盤を取り寄せ、早速お届けした。その後伺うと“中学生にも勉強を教える条件でないと集会所は貸せないと言われ弱っている。”とのこと。共同生活の中での何かを始めようとするときの難しさを垣間見た思いがした。

◇ミニ囲碁サロン

2011年の秋ころから気仙沼だけでなく陸前高田、大船渡のボラセンでも作業をするようになっていた。作業後は仮設住宅を訪ね集会所に碁盤や将棋盤を届けたりした。これは菅田さんがスポンサーになってくれた。どこの仮設でも自治会長さんは丁寧に応対してくれた。自分自身も被災されているので、応対に気持ちが現れていた。避難所の時の“お役所”の対応とは大違いだった。

仮設を訪ねるうち、子供の絵本も小規模の仮設には行き届いてないことが分かった。これには、福島へ同行した知人のつてで近くの小学校の父兄が協力してくれた。手芸材料は、どこの仮設でも喜ばれた。これには室岡さんや菊池さん、スペイン語教室の女性たちが協力してくれた。

昨年夏、碁盤のお届けが縁で知り合った仮設のKさんから集会所で囲碁サロンを開きたいと相談があった。月に1回月曜の夜、お邪魔することになった。参加者は4人で初心者の方もいた。終わるのは9時過ぎだった。住田町のボランティア基地に戻る途中、高田の市街地だったところを走ると、街灯のない原っぱの向こうに山の稜線がくっきりと浮かび幻想的な光景だった。

10月、Kさんの仮設で2回目の文化祭があった。書道、絵画や手芸品、農産物、盆栽などを展示し、踊りやのど自慢、お茶席まである。設営から撤去まで皆で共同作業だ。私も見よう見まねで盆踊りの輪に加わった。終了後は漁師さん差し入れのホタテが振舞われ夜遅くまで盛り上がった。

◇囲碁仲間との農業体験

昨年秋には各地のボラセンも相次いで閉鎖となり、私は地元出身のGさんが代表をしている”カモメネット” という団体で畑仕事を手伝うことが多くなった。所有者の人たちから管理を委ねられた被災した土地に花や野菜を植えて土地を再生する活動をしている。いずれ高台に住宅ができ落ち着いたときには、所有者の方はそのまま畑仕事に戻ることができる。
  
昨年11月にはこの畑に関西から菅田さんと奥村さんがブラジル帰りの疲れも見せず駆けつけてくれた。3人で300本ほどの玉ねぎの苗を植え付けた。肥料もやらず乱暴な植え付けだったがそれでもGさんたちの管理のおかげでなんとか育ってくれ、今年7月には再び3人で収穫することができた。玉ねぎは一緒に収穫した野菜とともに近くの仮設にお届けしたが小ぶりだったのがちょっと口惜しい。被災地では土地のかさ上げ工事が始まっているが、高台に住宅ができ仮設から移れるのはまだ数年先のようだ。そんなわけで昼間は太陽の下で若い人たちと汗を流し、時には現地の方やボランティア仲間と囲碁を楽しむ。そんな東北通いは当分続きそうだ。この秋は大玉の玉ねぎ作りにチャレンジだ。 



                      


   
送られてきた埼玉の野菜(南相馬)        寄贈の碁盤でOさんと対局(気仙沼) 
  



            
   
     
 玉ねぎの収穫 (陸前高田)              採れたて夏野菜カレー(陸前高田)



    
第9回「キューバ見たまま」   西島 昭

 

2011年9月から翌年6月まで囲碁指導員としてキューバに滞在した間に見聞したことなどをお伝えしてみたい。

 キューバ人の住まい
 キューバ人の住宅を何軒か見せてもらった。旧市街地に隣接するベダード地区のある人の家は、古い集合住宅のなかの一軒で、お母さんと本人(女性)という、家族構成のためか、あまり広くない居間兼寝室が2間、それに小さな台所と洗面トイレ室という構成であった。バスタブはついていないようだった。住宅密集地にある他の方の家も、やはり古い集合住宅ということで似たような構成であった。
 あるとき、大きなホテルが点在するベダード地区の通りを歩いていると、外国人である私を見つけた中年の男性が、部屋を貸しますと声を掛けてきた。後学のためにマンションの2階にある住まいを見せてもらうと、ホテルの一室のような大きめな部屋が2間あり、そのうち一間または2間を貸出し、自分たちは台所の一角に寝泊まりするようだった。季節によって値段がかわり、1泊20乃至30CUC前後とのこと。経済格差が広がりつつある現状の中で、人それぞれに所得を増やそうとしている様子がうかがえた。
 私自身はINDER(キューバ体育レクリエーション庁)に紹介されたホテルパルコに住んでいた。当初、費用の安い民間アパートか個人住宅の間借りも念頭に置いていたが、私の語学力では適切な住まいを探すことはできないであろうし、探す時間もないので、INDERの提案を聞くことにした。1泊朝食つき40CUC、日本円で約3200円(当時のレート換算)は、日本の感覚では割高ではなかったのであまり迷わず決めてしまった。費用は別途かかるにしてもインターネットが自由に使える、水も電気もほとんど中断することなく使える、囲碁会館から歩いて5分以内という条件は好都合であった。それにプールもついているのはありがたかった。
 地域によって住宅の大きさは随分異なる。ホテルパルコはハバナ市の旧市街地から車で約15分離れた郊外にあり、そこから裏手の方は緑の多い閑静なお屋敷街ともいえるところで、各国大使館公邸などがある。ホテルに近い家々も一軒家が多く、車庫のある家も多い。外観から想像すると何部屋もありそうだ。しかし、その地区の目抜き通りの脇道に密集する人家は、日本の昔の長屋のような佇まいで、各家の広さは狭そうに感じられた。
 キューバは住宅、教育、医療等は無料というが各家族が住む家はどのようにして決められるのか、残念ながら質問しそこなってしまった。

 キューバ人の挨拶
 男同士は握手、女同士及び男と女の場合は、女性の頬にキスするのが通例のようであった。毎朝ホテルの食堂で他の人々の挨拶を見ているうち、自分も恐る恐る食堂で働く女性(ガストロノミカ)にキューバ式の挨拶を試みた。案ずるより産むが易し、こちらが挨拶のしぐさをすると女性が右の頬を前にしてキスをしやすくしてくれる。うれしくなった。さりげなく自然にそのような挨拶をするためには、自分の体調や気分が平常でなければいけないので、以来体調には気をつけるようになった。
 あるとき、囲碁仲間のダイリという若い女性が、妹とお母さんを連れて囲碁会館にやってきた。お母さんとは初めて身近に会ったのでキューバ式の挨拶を行った。後日ダイリが私に言った。母親が言うには、あきら(私)の挨拶は本物ではない、もっと唇を頬にきちっとつけて息を吸わなければいけない、私に向かって練習しなさい、と。恥ずかしながらやってみた。不十分ながらそれでよいとダイリ。食堂で見るキューバ人同士、あるいは南米のお客同士の挨拶を見ていると、かなりはでな音をたててキスをしているがその理由がわかった。しかし、結局彼らのように上手な挨拶はできないままであった。
 スペイン語の手紙の結語に、キスと抱擁を、とあるが、本当に日常的にスキンシップをしているわけで、日本人式の黙って会釈より親近感があると思った。

 メディコ(医者)
 あるとき風邪をひいた。ホテルの客室係(カマレラと呼ぶ)が私に熱があるのを心配して顧客掛に連絡した結果、医者が二人きてくれた。国際会議場も隣接するホテルなので、常に医者も常駐しているのだ。背の高い黒人女性であった。外国人が飲む薬は小柄な日本人には強すぎるということを誰かから言われたのを思い出し、拙いスペイン語で、長年の人生経験で、風邪は寝ていれば治るので薬は要らないと必死に訴えた。医者は心配そうに私を見ていたが、私の態度を見て安心したのか水分を取りなさいとアドバイスして部屋をでていった。そのとき思い出したのが、キューバの医療技術の水準の高さと、国境なき医師団で活躍するキューバの医師の姿であった。2005年10月8日、パキスタン北部で発生した大地震で7万5千人が死亡した。あまりの大惨事に親米のパキスタン政府もキューバの申し出を受け入れ、地震発生後6日後には900人からなるキューバの医療援助隊が大量の医療品とともに駆けつけた。冬が近づくと過酷な環境に耐えられず多くの西側援助隊は立ち去ったが、キューバはそれから半年間極寒の地で多くの命を救い、最後は最新大量の医薬、機器を残して帰ったという(出典:吉田太郎著「世界がキューバ医療を手本にするわけ」)。キューバの医者にこの身体を委ねてよいかも知れないなどと思いながらとにかく安静にしていたら翌日元気になったので安心した。
 別のあるとき、目に出血があり何日も止まらないでいたら、食堂の給仕係のイダニアが心配して顧客掛に連れていき、さらにホテル常駐の医師のところに連れて行かれた。食事の変化による高血圧によるものかもしれないと心配してくれて、さらに外部の眼科医に行くよう勧められた。 出血の前日、囲碁仲間の誕生祝いで、アルコール度数の高いラム酒をたくさん飲んだことも原因であるらしかったが、とにかく専門医にみてもらうことにした。
 囲碁連盟会長のラファエルに連れられて眼科医に行った。30代にみえる美しい女医さんで、レンズのついた大きなメガネで私の目の奥をしばらく覗き込んでいたが、やがて診断した。強いアルコールを飲み、目の毛細血管が切れた、1日3回各約15分間タオルに水を浸み込ませ目の上にかぶせて安静にしていなさい、その間、ビタミン剤を1日1錠飲みなさい、という内容であった。原因がわかりホッとして医師の指示通り生活し、やがて出血は治まった。

 働く女性
 キューバは男女平等の国といわれる。今日、多くの国で女性が男性と同等に働くのは当たり前のことで珍しくないが、キューバでは女性が活躍する場が多いようである。表通りでは若い女性警官を良く見かける。炎天下で長袖なのは理由があるのだろうが健気な姿に心配しながら感心してしまった。
  
パキスタン大地震の際、宗教上の理由で男性医師の治療を受けたがらないパキスタン女性の命を救ったのも、派遣された医師の44パーセントが女性であったから、だそうである。囲碁の入門講座の受講希望者を募るため訪問した小学校や中学校でも、先生の大部分が女性で、男の先生を思い出すことができない。ホテルでも女性従業員が多い。離婚率が高く、一生のうち何回も結婚する人が珍しくない国なので、パートナーがいない時期は一人であるいは自分の両親と一緒に子育てしている例も少なくないようだ。社会主義の国なので、基本的な生活費が少なくて済むのも離婚を可能にしているともいえそうだ。

 所得格差
 サラリーマンの平均月収は20CUC、日本円で約1600円だという。 家賃、教育費、医療費などが無料、配給制の物資もあるらしい、ということで月収が少なくても暮らしていけるらしい。しかし、1缶1CUCとキューバ人にとっては安くないビールを平気に飲んでいる人も多い。所得の源泉が不明だが、ある人に聞いたところ、外国からの送金で暮らしている人も少なくないようだ。
 私の短期間の体験では、タクシー運転手が一番豊かなのではないかと思える。外国人相手の場合、たとえばハバナ中心街からホテルパルコまでは、交渉にもよるが大体10ないし20CUCだ。現地の人がマキナと呼ぶ乗り合いタクシーは一人20ペソだ(途中で降りる場合などは10ペソ)。数十年前のアメリカ製の車を改修して使っているが、一往復で仮に10人のお客が利用したとすれば最大200ペソ、1CUCは24ペソだからおよそ8CUC.サラリーマンの平均月収の4割で、何回も往復すれば月収を軽く超える。ガソリン代が高くてもよい仕事だ。
 日本では高額所得者と目される医師も月収は20CUCだそうである。ある女性の前の夫は世界的な遺伝子工学者だそうだがやはり20CUCだそうである。他の国の製薬会社などで働けば大変な額の報酬を得られるようだが、キューバのために自国で働いている。愛国心と大変なプライドに支えられているに違いないと想像する。そしてこうした人たちのお蔭で医療水準も高いのであろう。
 カストロの革命のお蔭で、例えば大学まで行けた人々、いわゆる革命世代は、革命に感謝している人が多いが、その後の第2、第3世代になるにつれ、感謝の気持ちが薄れているらしい。格差の現実と革命の理想との乖離の解消をどのように行うのか、大きなテーマであるようだ。

 ダンスと音楽
 キューバ人はダンスが大好きだ。囲碁連盟会長のラファエルも、年越しパーティで上手に踊っていたし、囲碁仲間のロイランも上手だ。ラファエルは実業家でロイランはコンピュータ技師で、いわゆる昼の顔からは想像できない。ロイランに感心して褒めると、自分はキューバ人であるとの返事だった。キューバ人なら誰でもダンスが好きで上手に踊れるということらしい。
 あるとき、ロイランに連れられてホテルの近くのディスコに行った。芋を洗うがごとき混雑の中で、私から見ると皆かってに気ままに腰をくねらせて踊っていた。ルールがないような踊りに見えたが、私がわからないだけでルールはあるとのことだった。ラテン音楽が好きでスペイン語に興味を持ち、キューバにたどり着いた私としても、なんとかダンスの輪の中に入りたかったが基本が違うのであきらめた。
 ホテルパルコでも、土曜日の夜はディスコが開かれる。ある日、囲碁仲間のダイリ(ホテルの近くに自宅がある)を誘ったらついてきてくれた。ちょうどその日、南米の観光客が大勢来ていた。ダイリのリードで自分なりに踊っていたら、パラグアイの女性が私を誘った。一応日本でチャチャやキューバンルンバを習ったことがあるので、その女性に合わせながら適当に踊っていたらその女性の仲間も加わり大いに盛り上がった。

 交通事情
 キューバには電車はない。バスが主な輸送手段だ。ハバナにはタクシーもあり、ときどき馬車も見かける。地方都市では馬車もかなり使われていた。ハバナと地方都市を結ぶ鉄道もあるにはあるがあまり利用されないようだ。時間が不定期で乗り心地も良くないようだ。11月にサンクトスピリツス住むサンチャーゴがハバナに来たときは、料金が安いから利用したとのことだったが十数時間かかったとのことで、囲碁仲間もおどろき少しあきれていた。さすがに帰りは高速バスを使って帰ったが、料金が23CUCとキューバ人にとっては大変な額だ。
 こうした交通事情のためで、キューバ人でも都市と地方都市間及び地方都市間の往来は大変なことなのだ。ハバナから東方へ約900キロあるサンチャーゴデキューバには飛行機で2時間ぐらいだが便数が少ないので予約が大変らしい。運賃も安くはないようだ。
 将来、環境の問題も考慮すれば電車の開通が望ましいと思われる。しかし、鉄道のインフラ整備は大変なコストと時間を要するので今のところバスで急場をしのいでいると言ったところかもしれない。

                                       

                 街の横丁 
                






              数十年前  の車が   大活躍
    
             居酒屋で    連碁
       
       
          



     第8回「ネット碁KGSのすすめ」 高淵秀嘉

            
     
        2010年11月メキシコ国立自治大学(UNAM)キャンパスでの対戦風景


       

    2011年11月チリ、サン・セバスチャン    同左の対戦会場で――.私にKGSを教えてくれたM・ム
    大学での対戦風景(筆者)            二ョスさん(左)と日本への囲碁留学生オスバルトさん(右)
                



 2月18日月曜日、朝から冷たい雨が静かに降っている。4日の立春から既に2週間。暦の上では春だが、日本列島の上には、まだすっぽりと頑固な真冬の寒気が居座っている。毎週月曜日は、ある棋友宅に10人前後の年金生活者がお邪魔し碁会が開かれる。1人千円宛の負担で昼食とささやかな景品を賄う。全くの自由参加のこの集まりに、私も大抵はいそいそと出かける慣わしだが、しかし、今日はこの寒さだ。遠慮して代わりに家でネット碁を楽しむことにした。
 5年前に別の棋友に勧められて柄にもなく始めた俳句の歳時記に「冬籠り」という古くからの季語があるが、今日はネット碁による現代版・冬籠りである。
 そして、この冬籠りのお陰で、この日私は思いがけず3人もの中南米の棋友とインターネット空間で海を越えて碁を楽しむことができた。いずれの棋友も、我がNPO法人「囲碁国際交流の会」(以下SIIG)のこれまでの交流活動の中で、私がたまたま御縁を結んだ旧知の人達である。
 その具体的な状況は後で述べることにして、まず、そもそもインターネット碁又はネット碁(以下ネット碁)とは何か。一言で言えば、インターネットのネットワークを介して行われる囲碁の対局のことである。オンラインゲームの一つで、同様のことが、将棋、麻雀などでも行われている。
 ネット碁の最大の利点は、近くに対局相手がいなくても、例えば自宅の書斎からでも碁が打てることである。
 ところで、このようなネット碁を楽しむためには、ユーザ(利用者)のためにネット碁が可能となるソフトウエアシステムを提供するホスト役が必要となる。このホストをサーバと呼ぶが、現在それぞれ持前の特色を誇示しながら沢山のネット碁サーバがユーザ獲得にしのぎを削っている。一部知名度の高いものを挙げれば「パンダネット」、日本棋院の「幽玄の間」、東アジア中心にフアンの多い「東洋囲碁」等々。この数年でまさに百花繚乱の観を呈してきた。それらの中で私が今日楽しむのはKGSという特定のサーバが提供する国際的なネット碁である。
 なぜKGSなのか。それは我がSIIGがKGSの中に一昨年創設したSIIG専用の謂わば碁会所があるからだ。「日本のSIIGの部屋」を意味するスペイン語でSala de SIIG de JapónとKGS内で表記されている(以下「部屋」)。
 すると次の問いは、数あるサーバの中からなぜSIIGがこのサーバを選びながらネット碁の世界に足を踏み入れたのか、ということになる。それは概ね次のような理由による。
 改めて、当NPO法人の事業目的を確認しよう。その定款第3条は「主にラテン・アメリカ諸国の市民・学生に対し、頭脳スポーツあるいは芸術といわれる囲碁の交流及び普及に関する事業を行なう」と定めている。この目的を十分に達成するためには、今後も従来どおり、当方から外国に赴き時には外国から招く形、つまり人と人の直接の「対面」交流を行うことが中核になるだろう。しかし同時に、時代の進展に伴う新しい国際交流の場、つまり距離の壁を越えるネット碁による交流の場も準備しておくことが望ましい。
 このような考え方に基づき、SIIGは2011年の事業計画の一つとして「海外とのネット碁交流開設」を決定した。そして、その第一歩として同年8月「インターネット囲碁サイトKGSの勧め」という広報資料をSIIG会員に配信した(SIIG通信11―17)。この広報資料において、数あるサーバの中からKGSを勧める理由として、いくつか指摘されているが、そのうち次の3点が基本的に重要である。
①無料。ネット碁を通じて世界の人々と気軽にかつ対等に国際交流を楽しむためには、
利用の無料(各国間の経済的格差を顧慮する必要がない)は、基本的な必要条件
②非営利。KGSはアメリカのある慈善家が囲碁普及のために非営利で運営しており、各国の有志がボランティアとして協力。我がSIIGの理念に近い。
③韓国を除く全世界の隅々で約10万人の利用者。特に中南米諸国の碁打ちの殆んどがKGSの登録会員であることが認められる。 
 以上のような一般広報と地道な個別的勧誘の結果、2011年9月、KGS管理者の了解と協力の下に、登録会員15名でKGS内に我がSIIGの囲碁サロン(碁会所)とも言うべき「部屋」が創設された。その後、SIIG会員に対する再度の広報(SIIG通信(11-19)等で現在24名の登録会員となっている。
 これら登録会員は、日常的には、この部屋で世界中の囲碁フアンと無作為的に手談を楽しむほか、距離の壁を越えて御目当ての特定の登録会員との対局や、また海外交流で知り合いになった中南米の一部の方々と海を越えての継続的交流を実現させている。
 また公式的には、この部屋で、昨年5月と8月の2回、登録会員同士の「ネット囲碁大会」が実現した。更に昨年8月から、原則毎月1回の月例集会が実施されている。
 そして特筆すべきは、以上のような「部屋」での日常の自由な対局と公式行事を通じて登録会員のKGS利用の各種スキル(技量)に目覚しい進歩が見られたことである。例えば、対局前と対局後の挨拶(hiやthxなど)をチャット欄に入力し相手に伝える初歩的なマナーを手始めに、今では殆どの登録会員が、各種のスキルを駆使して、日本をはじめ世界中の碁打ちとKGSというネット碁で対局することが可能となった。
 大分前置きが長くなった。私も以上のような経緯で設けられたKGSの「部屋」で、日頃ネット碁楽しんでいる者であるが、特に今日の「冬籠り」では、前述のとおり3人の旧知の人々に巡り会う幸運があったので、その次第を記し「部屋」の持つ国際交流の今後の可能性を感じ取っていただきたいと思う。

 日本の月曜日午前は、中南米の日曜日午後に当たるためか、「部屋」への中南米の来訪者が他の曜日に比較して多い。
 最初は、グアテマラの医師E.カセレスさん。2009年5月静岡県で開催された第30回世界アマチュア囲碁選手権大会に同国の代表選手として來日。SIIGは、大会期間中の一夕、参加の中南米選手役員を夕食会に招待したが、私は地元SIIG会員として、その準備と実施の一端を担当させてもらった。その中でカセレスさんと少し接触があった。同氏は現在グアテマラの囲碁クラブ会長でもあり、2010年11月、SIIGの交流団が同国を訪問したとき、大変お世話になった方という。KGSでの私との対局は、先方が4目置く4子局。結果は私の半目負け。
 このカセレスさんと私の対局を観戦していて終局となるや私に対戦を申し込んできたのがチリーのパイプラインの技師F・フォルテスさん。2011年11月、SIIGの交流団がアルゼンチンに次いでチリーを訪問したとき、チリーでの交流試合の会場設営に黙黙と専念されていた方である。交流最終日には我が交流団のために半ダースの赤ワインを贈って下さった。KGSでの手合いは先方が6目置く6子局。結果は私の6目勝ち。このフォルテスさんは、KGS内にSIIGの「部屋」が創設される前に私が出入りしていた「チリー人の部屋」で偶々知り合ったネット上の棋友であり、上記チリー訪問時に感激の初対面を果たした(「一碁一会」2011年岱号38ページ)。 
 この日は、上記の2人との対局を含め、早朝から夜まで断続的に、なんと13局。「冬籠り」とは言え、これは少し遣り過ぎであった。しかし、お陰でしばらく出逢わなかったメキシコのUNAM大学生D.M君と午後久しぶりに対局することができた。
 このD.M君とは、2010年11月、SIIGの交流団が同国を訪問したとき、上記大学のキャンパスに設営されたテント張りの会場で交流試合が行われたが、その時の私の対戦相手である。彼は私の帰国後もKGSによる継続交流を望み、私がこれに応じて現在に至っている。「冬籠り」の日の手合いは互先で、私の中押し勝ち。
 このように書いてくると、私は相当古くからのKGSのユーザと思われるかもしれない。実はそうではなくて、比較的最近南米チリーの会計士M.ムニョスさんに教わったものである。彼も前記カセレスさんと同様、第30回世界アマチュア囲碁選手権大会に同国の代表選手として來日。その時試合の休憩時間に1局お手合わせをお願いしたが、対局後彼が帰国後もKGSでの交流を希望した。私がKGSを知らないと答えると、筆談で詳しく登録の仕方を教えてくれた。これが私のKGSとの関わりの最初である。
 さて、この日の「冬籠り」の対局13局を相手の国名別に分類すると、次のとおり;日本6 ドイツ2 イタリア1 アメリカ1 グアテマラ1 チリー1 メキシコ1の計13局。私の8勝5敗。
 対局開始前と途終局時の挨拶hiと thxは基本的に必要であるが、これだけ遵守すれば当方から何も書き込まなくても又相手からの書込み(チャット)に応答しないで対局に専念してもよい。ただ私の場合、最近はhi from Japanと挨拶している。すると大概from South Africa, from Hungaryなどと応じてくれる。今対局している人がどこの国の人かも判らないまま過ぎてしまうのは、機械相手の対局とそんなに変らない。相手の国名を知るだけでも、何らかの想像の余地ができて少し人間的な感じの対局になる。
 終局後、カタコトの断片的な英語やその他双方の可能な言語で、チャットを継続することも勿論可能である。想わぬ展開もある。
 私は多くの方々に、以上のように無料で世界中の囲碁フアンと対局できるKGSをお勧めしたい。もっと部屋が賑やかになることも願う。手順は簡単。kgsの3文字でインターネット検索し、出てきたサーバ名をクリックすればよい。後は示される手順に従う。世界中で囲碁フアンが利用している広大で深遠なKGSの世界が其処にあります。

【余禄】
上記の冬籠りの日に浮かんだ拙句です。(●印)序にその他も御笑覧を下さい。私の場合、碁に関する俳句は川柳に近くなる。
 ●冬籠り彼の地は真夏ネットの碁 (冬)
 ○大くしやみ一つ碁敵帰りけり  (冬)
 ○手袋を脱ぐより烏鷺の戦かな  (冬) 
 ○花冷や負け碁の一手まざまざと (春)
 ○宿ゆかた待つ碁仇の長湯かな  (夏)
 ○碁仇の長考窓の柿若葉     (夏)
 ○秋扇を置いて勝碁を並べけり  (秋)
 ○碁仇の上目遣ひや秋扇     (秋) 






       第7回「三面の碁盤」    荻野 進



        


  家には脚付の碁盤が三面ある。

黒光りしている桜の三寸盤は父の形見だ。父が80歳で亡くなって20年近くたつ。古道具屋で購入したと言っていたので百年以上の古い盤だと思う。父はこの碁盤でよく打っていた。お相手は大学の美術の中村先生で、先生の方が何子か置いていた。父の棋力は1~2級位ではなかったかと思う。私は時々盤則で見ていて碁を覚えた。会社勤めでたまに帰郷した時父とよく対戦した。同じくらいの棋力になっていた。父との最後の対局は父が今の私くらいの年齢だったと思う。軽い認知症になっていて、「劫」の仕組みを忘れていた。劫だてをしないですぐに取り返す。だから劫ができたら全てゆずったので私の負けだった。父も「劫」を忘れたかと悲しかった。

銀杏の五寸盤。之は父が定年退職するとき「記念に何か買ってやる」というので所望した。碁盤の裏に「定年退職記念 父より進へ」昭和48年3月と墨書してある。私が33歳の時でもう40年前のことだ。べニア板で蓋を作って大事に使った。この碁盤で子どもたちに碁を教えたが当時はテレビゲームが全盛で全く興味を示さなかった。今頃になって「あの頃碁を教えておいてくれたら」とよく言われるが私自身も残念に思っている。銀杏は碁盤材として榧に次ぐと聞いていた。私の棋力で言えばそれで十分だったが定年退職の記念に榧盤を買おうと思った。私の家から車で20分くらいのところに行田市の吉田碁盤店が有るのはずいぶん前から知っていた。太刀盛りで有名な碁盤師でテレビで何度も放映されていた。田圃の中に工房と住まいが有り青田の頃訪ねていった。2代目の吉田寅義さんが工房に案内してくれた。8畳ほどの狭い工房だった。そのあと座敷で沢山の碁盤を見せてくれた。中には藤沢秀行さんの「磊」という大きな墨書の有る碁盤もあった。秀行さんと仲良くしていて秀行さんからの注文も多いと言っていた。(吉田さんの姉さんの晴美さんは日本棋院の女流プロで現役だという)碁のブームも下火になって碁盤も一時の半値以下になったというが今の年金生活から思えばべらぼうな高い買い物をしてしまった。榧の八寸盤だ。20キロも有って一人で運ぶのも大変だ。運搬中に傷をつけてはいけないと言って吉田さんとその息子さんが家まで運んでくれた。

私の家には先生格の友人が時々遊びに来る。当然私が黒番で一度もハマグリを握ったことがない。チリの青年バルト君が我家にホームステイした時初めて白番で打った。それがこの写真である。

この頃はインターネットで碁を打つことが多くなり碁盤は床の間に置きっぱなしで文字通り宝の持ち腐れになりつつある。吉田さんが碁盤を届けて帰る際に「不要になったら古道具屋さんに出すようなことをせず私のところに連絡してください」と之は家内に言ったようだ。大袈裟に言えば榧盤は国の財産。私もそろそろ吉田さんのところに引き取ってもらうことを真剣に考え始めているが之は年齢というより小使不足が主因かもしれない。


  第6回「棋力向上を目指して」    平岡勝男

         

               平岡さん                     平塚囲碁まつり1000面打ち大会にて

2005年のキューバ・メキシコ交流に参加して以来、海外訪問は4回経験しました。 国内大会、月例会及びインターネット大会も毎回楽しみに参加しています。囲碁の楽しみ方や勉強の方法は、人それぞれですが、私の場合は、棋譜並べ、碁会所での対局、プロ棋士による指導碁を続けています。
機会をとらえてはプロの指導碁を楽しみにしています。つくばね大会では鄒海石先生に毎回指導していただいております。前回の名古屋大会では、重野先生に打っていただきました。この時は、4子置いて結果は、ジゴと上出来でした。9月には「すみだまつり100面打ち大会」があり、金沢真三段に指導を受け、また、10月には毎年楽しみにしている「平塚囲碁まつり1000面打ち」に行き、但馬信吾三段に指導を受けました。今年も木谷門下棋士を中心にプロ棋士が70数名来られて盛大でした。当会からは、進さん、大西さん、川井さんが参加されていました。 但馬プロの指導碁の時は、二十四世本因坊秀芳(石田芳夫九段)と高尾紳路九段が一手だけ打ってまわるサービスがあり、高尾九段には前の着手を褒められて気分良く打てました。

 碁会所は近くにある「白山囲碁倶楽部」に通っています。 地下鉄三田線の白山駅にあり、知人と月に2~3回対局しています。近くには、雁金準一棋士の墓がある顕本寺があります。この碁会所は、主に小・中学生を対象にしているところで、熱心な席亭の指導努力の成果で優秀な学生が何人も巣立っており、プロ棋士・安達利昌二段もその一人です。ここに通う児童の親に共通して言えることは、囲碁に対して理解があり、熱心だということです。学習塾と同様に、このような環境の良いところに通う児童が増えれば、囲碁人口の増加と若返りに繋がることでしょう。 

囲碁ライターの長谷川加奈美さんの紹介で福井正明先生の会に6月から参加するようになりました。長谷川さんのホームページは良く出来ていて必見です。ハーレーで米大陸横断した時の旅行日誌も面白く、幅広い行動力には感心させられます。福井先生の会には、月2~3回参加しています。5子局から始まり、現在4子で、3子局まで上達すべく奮闘中です。先生は歴史に詳しく、特に囲碁の歴史については、碁界では有名です。 この会には、廣瀬さん(「棋道」元編集長)、秋山さん(囲碁観戦記者)等強豪も時々、顔を出されます。対局後に皆連れ立って、一杯飲みに行くのも楽しみの一つです。

読まれた方も多いと思いますが、先生の著書に「囲碁史探偵が行く」があります。面白いエピソードが満載で、当会名誉顧問の時本先生や鄒先生の話も出てきて、楽しく読みました。先生の影響で歴史に関心を持つようになり、歴史小説を読むようになりました。棋譜は主にタイトル戦を並べていますが、思い出して、「囲碁名勝負100番」(田村竜騎兵著)や「本因坊秀哉全集」など古碁を並べるようになり、現在は「囲碁百名局」(高木祥一九段監修)を並べていて、漸く上巻をクリヤーしたところです。

 プロの先生方からは、囲碁が強くなるためには、詰碁と棋譜を並べることをよく勧められました。先日、アマチュアの強い人にどうすれば強くなるかを質問したところ、その人は「強くなろうとする気力があれば強くなれる」と言っていました。それを信じてこれからも楽しく囲碁を続けていこうと思います。 



      第5回「浪速囲碁散歩」     阪本好伸
        

           

 

 98()、大学囲碁部の仲間が一年に一度大阪に集まる。大将は、私が4年間在学中に他校との対抗戦では常にシンガリに控えて一部昇格を果たした立役者で、その後奈良県代表となり、今もOB戦では大将を続け全勝を誇っている。大学生の時から2目なら何とか勝負になるが先ではどうしても勝てない相手であったが、今回も先で挑戦したものの軽くアシラワレテしまった。 

 ここに集まるメンバーの中には、学生時代に他の2人の友人を合わせ4人で北海道まで碁を打ちに出掛けた同窓生岩崎君がいる。学生時分は私に5子ほど置いてきていた筈なのに、今や互い先で打ってもどうかという棋力で、先に触れた大将の斎藤さんとの棋力差も含めて考え直して見ると結局自分が弱くなっているという結論に達してしまう事になる。

 しばらく皆で碁に興じた後、日本棋院関西本部の直ぐ近くのお好み焼き屋に繰り出して久し振りの再開を祝し、更に勢いで天神町五丁目にあるという円田九段経営の囲碁サロン兼バーに行ってみた。一階がバーで円田さんが店主バーテンダー、助手に可愛いナタリーと呼ばれる30前かと思われる元気な女性がいて、話し相手になってくれる。円田九段は世界各地に出向かれてきた囲碁のプロで、又特にブラジルを中心に南米各国はほとんど全部回られたという事で、先ずはチリ産Cabernet Sauvignonを皆で味わいながら南米談議となる。 

 このバーに着いた時には、カウンターに阪大関係者を中心に数名がやはり囲碁談議に花を咲かせていたが、我々に席を譲ってくれた。彼らは別のバーに出掛けるという事であったが円田さんによると、又後で戻って来るとの事。この場所が気に入って初中出入りしている模様。我々が一階のバーで話している途中に、二階から70年配の方が誰か一局教えてくれる人はいないかとの呼びかけが我々仲間にあったが、皆碁は好きでも今はワインの時間という感じで、又店主の囲碁プロも教えるタイミングが悪いねという事で、已む無く二階の暇人も階上に引き上げる。 

 チリではピスコサワーが食前酒の主流である事を、ご存知の方は多いかと思うが、ここにはピスコはありますかとの問いにペルー産のがあるとの事。早速これをロックにして貰って更に南米ムードが高まり、東京に囲碁サロン・バーの支店は作らないのか等、勝手な話が続いた。私が顔を出す幾つかの囲碁グループでは碁の後は必ず居酒屋行きで、碁が好きなのか飲むのが好きなのか分からない者が少なくない。そういう訳で円田バーの様なのが近くに出来れば出入りが多くなるのは確かな事かと思われる。近くとは勿論東京都内であればという事になる。残念ながら当面その計画はないとの返事しか返って来なかったが、円田さんの様な棋士が、その内新しいアイデアで囲碁普及を始められるのを楽しみにしたい。
 それまでは今まで同様、新宿の囲碁サロンとその近辺の居酒屋・バー、国立の囲碁サロンと居酒屋、東京駅の囲碁サロンと八重洲近辺の居酒屋が私の相手をしてくれるであろう。 

 話は大阪に戻り、99日(日)は関西大学囲碁部OB・OG囲碁大会で、大阪外大からは60歳未満のヤンググループ(といっても直前のメンバー変更で76歳が一人入ったが)と、60歳以上(これも69歳の一人を除き皆70歳以上)の2グループで参加し、総参加者数は198名で我々のロートルグループは1グループ5名で9チームリーグ戦方式が採られた。60歳以上グループの第1戦は半目勝ちが2局出て3勝2敗で勝てたが、2回戦は実力負けか1勝4敗、しかし最終3回戦で4勝1敗と辛くも3位入賞を果たす。今まで入賞は経験した事がなく、打ち上げの時は皆意気軒昂で来年の再会を誓う事となった。ただ私の第1回戦の碁は偶々半目差で勝ったものの局碁の検討では相手が上手く打てば逆に半目差または1目半差で敗れていたもので、ツキで勝ったとしか言えないのが実情なのだが、兎も角学生の時の様に、この半目勝ちとチーム3位に酔いしれる事となってしまった。 

 こういう訳で囲碁はマダマダ私の若さを維持させてくれていて、これを初めに教えてくれた亡き父と大学囲碁部の仲間達、国際囲碁交流の会の皆さん、プロの先生方、またアルゼンチン・チリなどの囲碁仲間、ネット碁を通じての世界の友人など全ての囲碁仲間に感謝の気持ちを伝えたい。有難うございますと。 





    第4回「パラグアイ大会で優勝」 小海 英夫

             

           小海さん                              西井さん宅の碁盤

 
 1998年3月に会社を定年退職した後、第2の人生をどのように生きれば人の役に立つ事ができるか思案していた時、JICAがシニア海外ボランテイア募集説明会を催していることに気づいて参加しました。多くの開発途上国から日本にいろいろな分野の技術指導要請があることを知りました。私は現役時代に環境装置メーカの技術部員として都市ごみ焼却炉やゴミリサイクルなどの設計や技術開発に携わっていましたので、要請リストに南米パラグアイでゴミ処理技術の指導要請案件があるのを見つけて、これは自分に対応できるかもしれないと考えて応募しました。
  1次選考は書類審査だけなので、自宅にいたまま合格しましたが、2次審査を受けるために東京に行きました。2次審査は精密健康診断、語学試験(筆記とヒアリング)および大勢の審査員と直接向かい会う面接がありました。2次選考合格発表の日を不安と期待でどきどきしながら待っていましたが、合格の知らせを受けた時、第2の人生に希望の光が見えた喜びを感じました。JICAによる約10日間の派遣前オリエンテーションと約2週間のスペイン語教育を受けて任地に出発することになりました。スペイン語学習は生まれて初めての体験でした。2001年10月にパラグアイに出発しました。パラグアイでの任地は首都アスンシオン市から遠く離れた、バスで片道6時間の小さな田舎の自治体、カピタンミランダ市役所でした。住居はその近くのパラグアイで3番目の都市エンカルナシオン市内のマンションを借りて住むことになりました。
 毎週月曜日から土曜日までカピタンミランダ市役所に毎日バスで約1時間かけて通いました。毎土曜日にカピタンミランダ市周辺7つの自治体から各市長さんに指名された将来のゴミ処理行政担当予定者7名が集まってゴミ処理技術を含む環境問題の勉強会を行いました。月~金はカピタンミランダ市で発生しているさまざまな環境問題に関して市長さんや市会議員から質問される問題について検討会を行ったり、現場調査をしたり、土曜日の勉強会の準備を行ったりしました。日曜日は休みです。1950年代に大勢の日本人がパラグアイに農業移住し、農業だけでなく工業や商業の分野でも活躍している日本人が多く居て日本人会を組織していました。私が住んでいたマンションの近くに西井馨さんが金物店を営んでいました。西井さんも移住1世の一人でした。西井さんのお店に日用品など買いに行っているうちに囲碁の好きな人である事がわかりました。日本棋院の岩本薫九段がお元気な頃、ブラジルなどの南米諸国に巡回囲碁指導に行かれていたことはよく知られていますが、パラグアイにも何度か行かれたようです。西井さんはその頃の岩本薫九段に1度だけ指導碁を打っていただいた事があることを誇りにしていると話してくれました。その話がきっかけで私も囲碁が好きだというと、それから時々西井さん宅に招かれて囲碁を打ちました。
 毎月日曜日の何回かは西井さん宅に囲碁好きな日本人が数名集まって対局していました。西井さん宅には折りたたみ式や脚付きを含めてたくさんの碁盤がありました。中にはみごとな本カヤの6寸盤もありました。西井さんが身上を築き挙げた後、日本に一時里帰りした時に、ン百万円か出して買ったとのことでした。写真の一つはその高価な碁盤です。

 或る日、西井さんから、全パラグアイの全国囲碁大会が予定されているので、私にも出場しないかと誘われました。全国大会と聞いて、地方予選を勝ち抜いた強豪ばかりが出場する日本のそれをイメージしましたが、そんな大げさなものでなく、チョッと囲碁を知っていれば誰でも出られるのだと説明されて出場しました。参加者は有段クラスと級クラス合わせて20名ぐらいでした。私は3段格として2年間のパラグアイ滞在中に3回出場しました。1回目は勝ち星が少なくて入賞できませんでした。2回目は7勝2敗で4位入賞でした。3回目は私の任期終了目前でしたが8勝1敗で有段の部で優勝を果たす事ができました。全パラグアイ囲碁大会での優勝はパラグアイ在任中の嬉しい思い出の一つとなりましたが、囲碁大会に出場していたのは日本人ばかりで、本来のパラグアイ人に対して囲碁普及がほとんどなされていないことを淋しく感じました。
 パラグアイでの任期を終えて帰国した後、チリから要請のあった都市環境問題の技術指導案件で再度シニア海外ボランテイアに応募して2年間派遣されました。私がチリに到着した時、首都サンチャゴには囲碁指導のためにシニア海外ボランテイアとして派遣されていた阪本さん(当会会員)がいらっしゃいました。チリには囲碁連盟があり、有段クラスと級クラスを合わせれば100名を超えると思われる大勢のチリ人が所属していました。阪本さんはチリ囲碁連盟メンバーの指導に当たっていました。チリにおける私の任地は首都サンチャゴから遠く離れた、バスで片道4時間掛かる田舎町、ピチレムでしたので頻繁にサンチャゴに出かけることはできませんでしたが、たまにサンチャゴに出かけた時は阪本さんの計らいでチリ囲碁連盟のメンバーと楽しく対局できたことが私の大きな喜びでした。
 
        
                 

                       全パラグアイ囲碁大会記念写真




    
第3回「世 界 に 友 達 を !!」菊 本 慶 治

                 


  リレーエッセイを頼まれたのは2カ月以上も前。それからというものは頭の片隅にあれ書こか?これ書こか?と押しくら饅頭のように言葉が浮いたり沈んだり・・。近頃囲碁の成績が良くないのはこのプレッシャーのせいに違いないと言い訳だけが上達していますが。

元はと言えば、囲碁国際交流の会(SIIG)という囲碁好き・旅好きにはたまらない集まりに入会してすでに5年目。おもしろくて個性と魅力たっぷりの人たちとの出会ってしまったんですね。 

  その個性と魅力にあふれた方の一人にボランティア棋士の柿島君がいます。彼と初めて出会ったのは2011年世界アマ松江大会でした。森野九段の肩に手をかけて大会会場の入口に立ったとたん、彼が「ここはとても長い会場ですね」って言ったのです。彼は全盲って聞いていたのに、目が見えるんだ!と驚きました。目じゃなくて音でみていたんですね。音から立体を感じているんですね。。何年か前に、盲学校の生徒たちの写真展を見た時、音が写真になっていると感じたことを思いだしました。ぼくの日常生活では視力を失った方との接点がありません。まれに白杖を持って歩いている方に出会う位です。手話で話し合う人たち
に仲間入りしたこともありません。だから森野9段が「パラリンピックで視覚障害者の囲碁を!」と世界を飛びまわり、吉野さんが、「目のみえない人に絵画を!耳の聞こえない人に音楽を!」と熱く語り、柿島君が「囲碁を覚えて世界が変わったんですよ」と話すのを聞いて、人の可能性に限りのないこと、まだまだ未知の世界があって、いくらでもチャレンジできるんだなと僕自身を励ますことができましたね。

  さて柿島君は世界アマの選手や観戦にきた人たちに視力が無くても使える碁石・碁盤の紹介と対局をしながら、SIIGの合宿にも参加してくれました。その時起きたことですが、世界アマ・タイ代表のラッタナセット君が目隠しをして彼にチャレンジしたのです。ラッタナセット君は世界アマ11位の強豪です。やがて碁盤の周りに人垣ができて、二人の手談の世界が波紋を拡げていきました。世界アマでのどの対局ともひけをとらない友情の一局になりました。(最初に紹介した写真がその時のものです)

「世界に友達をつくって、戦争をしない人の和(輪)をつくりたい」 そんな願いが少しずつ、叶えられていくように思ったひとこまでした。





    第2回「囲碁は心と心のコミュニケーション」吉野公喜


     
 

2011年10月22日、筑波技術大学春日キャンパスで第5回囲碁大会が開催された。優勝者は、保健科学部
情報システム学科に学ぶ視覚障害学生2年のN.T.君であった。

  
産業科学部に学ぶ聴覚障害学生と保健科学部に学ぶ視覚障害学生がキャンパス内で共に囲碁に興じ、
年に一度囲碁の大会を催したいとの大沼直紀学長(2003年4月~2009年3年)の熱い想いの結実というこ
とである。当日は、関西棋院の森野節男九段を始め、村上芳則学長、合田寅彦SIIG会長、その他学外者の
支援をいただいての大会であった。私も、この間理事(2004年~2009年)として、大会開催の実現と
「キャンパス内囲碁サロン」の実際に携わってきている。

  
囲碁大会は、森野九段考案の視覚障害者用の9路盤を用いての決勝3番勝負であった。第4回、第5回の
優勝者は、共に視覚障害学生であった。「目の見えない者が、目の見える者に勝つ」ことが例外ではない
こと、むしろ当たり前でもあることを教えられた。「耳の聞こえない者が、耳の聞こえる者にも勝つ」
ことと同じように。囲碁は、「手談」なる故と思いたい。とはいえ、視覚障害者が、触覚で9路盤、ある
いは19路盤の盤上をどう想い描くかについては、見える私には想像の域をはるかに超えるものがある。
点字を読みとる、触覚で空間を布置する。 大脳の皮質に、見える世界、聞こえる世界にいる私たちとは
別次元の能力が育まれているかもしれない。聞こえない、「聾(ろう)」の人に、手話の世界、そして
「ろう文化」があるのと同じように。
  2010年、メキシコ囲碁文化交流で、私たちSIIG一行は貴重な経験をした。世界的に著名な数学者である
キンテロ教授とその教え子による聴覚障害者への囲碁指導に関するものであった。健聴者中心の世界で、
コミュニケーションの制約を限りなく受けがちな聴覚障害者に、「囲碁によるコミュニケーション」を
という取り組みであった。

  
手話のできない健聴者、音声言語を話すことのできないろう者が、囲碁という手談(それは文字どおり
手段でもあるが)で、心を通わす。

 森野先生考案の視覚障害者用碁盤の使用で、盲の人でも決定的なハンディキャップを受けることなく
健常者とでも碁が打てる。聞こえないろうの人と、見えない盲の人どうしでも碁に興ずることができる。
  碁盤を前にして、一手一手、相手に問いかけあう。相手を思い、自らへも問いかける。お互いの関係性
を大切にする。コミュニケーションの心理は、関係の心理と思慮するとき、「囲碁は、心と心のコミュニ
ケーション」と心底思いたい。

 最後に、筑波技術大学を紹介し、筆を擱きたい。
 国立大学法人筑波技術大学(National University Corporation Tsukuba University Technology)は、
茨城県つくば市に在る聴覚に障害をもつ人そして視覚に障害をもつ人が学びを得る4年制の国立大学である。
2つの学部からなる。保健科学部には視覚障害をもつ学生、産業科学部には聴覚障害をもつ学生が学ぶ。
2005年10月1日、前身の筑波技術短期大学(3年制1987年10月創立)から4年制に移行したものである。
現在は、大学院研究科を有する聴覚・視覚障害をもつ人のための世界屈指の大学である。



       第1回 「幻の国を求めて」  合田寅彦

        
      

  アルゼンチンから長距離バスでアンデス越えをしてチリに入る。チリではマイクロバスでアタカマ高原を走破。
 
こう書くだけの威勢のいい旅ではあったけれど、正直なところ70歳を超す身にはちょっぴり応える旅ではあ
った。空を飛んでいる時間だって思い返せば相当なものだったわけだし。そんな実感から口を衝いて出たのだろ
う、走行中のバスの後部座席で私は、「来年、ブラジル?もうそろそろ近場の国との交流がいいんじゃないかな
あ」と誰に言うともなく周囲に話の水を向けた。
 そこで私が口にしたのは、ヨーロッパロシアから見て遠く離れたシベリアや極東ロシア、つまり、イルクーツ
クやウラジオストク、そしてヒマラヤの秘境ブータンでの親善交流であった。
  ロシア人はチェスが好きだし、すでに碁も普及しているに違いない。それに日露戦争のさなかにシベリアに
渡り、日本の居留民の救出と布教を兼ねて30年の長きにわたり異国を旅した浄土真宗僧侶・太田覚眠(1866
-1944)の足跡なども知ることができるかもしれない。人のよさそうなロシア人の顔も浮かぶ。
  一方のブータンだが、これにはまた別の深い想いが私にあった。それは、講談社版「現代囲碁体系 別巻現代
囲碁史概説・現代囲碁史年表」(林 裕編著)の年表の中に、「1959年4月2日、シッキム王国
(註・今はインドの保護領)の皇太子ソンダップ・ナムギャルが日本棋院中央会館を訪問、伊予本桃市六段とチ
ベット・ルールによる碁の対局をする。中央会館より盤石一組を寄贈。」とあり、もしや隣国ブータンでも・・・
との淡い期待を抱いていたからだ。国民総生産でも国民総所得でもなく国民総幸福を説く国王のおかげで、いま
やブータンは人気の的になっているけれど、私にとっては囲碁に類する卓上ゲームがありやなしや、それが問題
なのだ。その意味でブータンは私にとっては今もって幻の国なのである。そしてもう一つ、そもそもチベット・
ルールとは何ぞや、である。これまた不明。伊予本桃市六段を師匠に持つわが名誉顧問・鄒 海石七段 が果たし
てこのルールをご存知かどうか。
  2月のある日、私の住む八郷から峠一つ越えた隣町の、今年で創建1000年になるという由緒ある神社を
妻と訪ねた。そこの宮司さんご夫妻は反原発や環境問題を通しての古くからの友人で、その日はもっぱら田んぼ
の米や鶏卵のセシウムの値が話題となった。その宮司さんは本業のほかに立派な百姓でもあったから。そんな会話
の中で私は南米の囲碁旅行の話もし、そのついでに「来年はもしかしたらブータンへ・・・」と言ったところ、
そのご夫婦の目が俄かに輝いたのだ。そして、お二人の口から同時に出た言葉は、「うちの娘の亭主はブータン
人!」 今は孫と三人でつくば市に住んでいるが、2年後にはブータンに永住するのだという。ブータンを旅した
娘さんが観光ガイドをしていたその青年に惚れたらしい。ブータン人は日本人にそっくりで、しかも山を登る青年
の後姿の逞しさは日本の青年の及ぶところではないそうである。
 遠い幻の国と思っていたブータンが突如私の庭先に現れたようで、もしわが会がブータン行きを実現するような
ことにでもなれば、私とこの宮司さんとの関係には反原発や環境問題にもう一つブータンが加わること間違いない。
そう確信している昨今である。



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